こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【松江豊寿と板東俘虜収容所】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
今も続くバンドーの絆
坂東の収容所は第一次大戦終結と共に使われなくなりました。
このため、松江がドイツ人捕虜たちと過ごした期間は3年弱といったところなのですが、ここを起点とした交流は今も続いています。
捕虜たちが帰国直前に「ここにいる間に亡くなった者の慰霊碑を作りたい」と言っていたことが直接のきっかけになったようです。
彼らがこの地を去った後、この慰霊碑は一時期忘れられてしまいましたが、第二次大戦後周辺住民によって発見され、手入れがされるようになりました。
そして報道によりこのことを知ったドイツ大使や領事が坂東を訪問し、さらに広く知られていくことになります。
また、元捕虜たちは帰国する者と日本に残る者に分かれましたが、どちらも板東のことを忘れはしませんでした。
「ドイツ人を偲ぶ会」
帰国組は母国で「バンドーの会」という団体を作って元捕虜同士の交流を続けており、上記の経緯からか戦後「今の様子を知りたい」という手紙が板東に届きます。
こうしてやり取りが始まり、板東でも「ドイツ人を偲ぶ会」が作られ、収容所跡地の様子を収めたフィルム(ビデオ)がドイツに送られました。
もちろん慰霊碑の様子も写っており、一時忘れられていたとはいえきちんと守られていたことを知った元捕虜たちは、感謝の念を込めて大麻町(収容所付近の新しい町名)へお金を送り、町はそれを使って慰霊祭を執り行いました。
また、その後元捕虜の娘さんが来訪したり、ドイツ・リューネブルク市と鳴門市との交流がされるようになっています。
一年おきに親善大使が行き来するそうで、街同士の交流としては結構大掛かりですよね。
この逸話がお好きな方、ドイツに行きたい方は鳴門市の職員になるといいかもしれません。
動機が不純でもちゃんと仕事やれば大丈夫でしょう。多分。
あわせて読みたい関連記事
斗南藩の生き地獄~元会津藩士が追いやられた御家復興という名の“流刑”とは
続きを見る
満身創痍の会津藩に生まれた西郷四郎~軍人の夢敗れて伝説の柔道家に
続きを見る
敗者の会津藩士が極寒の北海道余市へ 開拓リンゴ「緋の衣」が誕生
続きを見る
授業中でもケンカ上等だぁ! 会津藩校「日新館」はやはり武士の学校でした
続きを見る
斬り合いの最中に銃弾が胸を貫いた~会津藩士・佐川官兵衛の西南戦争タイマン
続きを見る
敵に囲まれた城を獅子舞で突破!会津藩士・山川浩の戦術が無双だ!
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
日本人名大辞典
国際留学生協会(→link)
姉妹都市ドイツ・リューネブルク市/鳴門市(→link)
松江豊寿/wikipedia