一休宗純

一休宗純(伝・墨渓筆)/wikipedia

源平・鎌倉・室町

「一休さん」こと一休宗純は後小松天皇のご落胤だった?破天荒な僧侶生活

2024/11/20

誰もが知っているような昔話を辿ってみたら、実は意外な内容だった――そんな話をお聞きになられたことがあるでしょうか。

わかりやすい例で言えば、桐生操さんの『本当は恐ろしいグリム童話(→amazon)』ですかね。

微妙な路線の違いはありますが、日本にも似たようなケースはあります。

文明13年(1481年)11月21日は一休さんこと一休宗純が亡くなった日です。

織田 信長や細川 忠興、石田 三成など、数多の戦国武将のお墓がある大徳寺の住職を務められた御方……というよりも、そりゃまぁ「とんち話」で知られますよね。

一休宗純(伝・墨渓筆)/wikipedia

 


後小松天皇の落胤説が有力?

一休さんのトンチといえば

「橋の端を渡る」

「屏風に描かれた虎を捕まえる」

などが特に有名ですね。

では、史実の一休宗純は?

というと全く毛色の違う逸話が多々残っています。毛色というか対象年齢といったほうが相応しいかもしれません。

まずは生い立ちをたどるところから振り返ってみましょう。

僧侶によくあることで、途中何度か名前が変わっていますが、「一休」で統一します。

彼が生まれた直後のことはよくわかっていません。

「後小松天皇の落胤である」という説が囁かれています。

別にお忍びでどこかの女性とイチャコラしてたというわけではなく、お手がついたいいとこの女性が宮中から下がって一休を産んだ、と。

「◯◯は✕✕の落胤である」という話にはよくあるパターンですね。

 


弟子入りした翌年に師匠が亡くなる

一休宗純は6歳のときには仏の道に入っております。

いわば生え抜きの僧侶というわけですが、お経よりは詩作に精を出していた様子。

というのも、10代のうちに漢詩で京都中の話題となったことがあるのです。

お寺は教育機関という面も強かったですし、教養の高い人が詩を詠むということが珍しくない時代です。

そんなこんなで真面目なのか不真面目なのかよくわからんまま成長し、17歳で別のお寺に移り、謙翁宗為(けんおうそうい)というお坊さんのもとで勉強し直します。

しかし、です。

弟子入りの翌年、この方が亡くなってしまいます。

18歳という多感な年齢もあってか、一休はこれを深く悲しみ、一時は後を追おうとまでしたといわれています。

そこからどうにか立ち直り、今度は大徳寺の華叟宗曇(かそうそうどん)という僧侶に弟子入りして再び仏の道を歩みだしました。

 

「あろじより なろじへ帰る 一休み」

そもそも、なぜ一休という名前なのか。

実は一つの歌が関連しております。

一休は大徳寺で「洞山三頓」という公案を解き、そのときに詠んだ

あろじより なろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け

という歌から「一休」という同号を授けられたのです。

「あろじ」=有漏路は煩悩の多い現世

「なろじ」=無漏路は悟りの世界=あの世のことをさす

歌の大意としては

「現世からあの世に帰るまでのほんのわずかな間のことだから、雨が降ろうが風が吹こうが何をしようが問題ではない」

というところでしょうか。

似た話として、伊達政宗の遺訓にも「この世に客に来たと思えば何の苦しみもなし」という一説があります。

一休さんは禅宗の人ですし、政宗のお師匠様も禅宗の僧侶だったので、もしかしたら影響を受けたかもしれないですね。

伊達政宗/wikipediaより引用

なお「洞山三頓」自体をかなりザックリ言いますと、

「あるお坊さんがお師匠様にこれまでの旅程を話したらめっちゃ怒られた。なぜか?」

という話だと思うんですけど違いますかね。

え? そんな簡単に答えが出たら修行はいらん?

うん、確かにそうなんですよ……。

ちなみに「公案」というのは、禅宗での悟りを開くために用いられるクイズのようなものです。

正直、凡人には答えを聞いてもハテナしか出てこない話が多いやつ。

有名どころの「隻手の声」(※)なんかはわかりやすいですけどね。

「隻手の声」

両手を打ち合わせたときに音がするが、隻手(片手)ではどんな音になるか?という話。

おそらく「一人の片手では鳴らないが、別の人の片手とであれば音がする」、転じて「一人で何もかもやろうというのではなく、他人と協力することが大切である」というのが答え。

 


カラスがカーッと鳴いたからサトリ記念日

一休宗純独特の無常観が詠まれたこの歌。

この時点で禅宗の悟りを開いていてもおかしくなさそうなものですが、それは「一休」の名をもらってから五年後のことでした。

ある日の晩にカラスの鳴き声を聞いたのがきっかけといわれています。

お寺ですから、いろいろなものを目当てにカラスがやってくるのもおかしな話ではありませんけども、何となく腑に落ちないのはワタクシだけでしょうか。

そこから先が一休さんの場合、大問題だったりします。

普通、悟りの境地に至った僧侶って、巡礼なり布教なりそれらしいことをしますよね。

しかし、一休は、悟りを開いた後に煩悩の塊としか思えない言動をしている。

男色(今で言うBL)は僧侶の嗜みみたいなところがあったのでまだしも、女性もOKだったり、肉や酒を味わったり、「本当に悟り開いたの?」とツッコミたくなるようなことばかりやっていたといいます。

まあ、お釈迦様も「苦行とかやっても悟り開けないから意味ない」(超訳)みたいなことを仰ってたみたいなので、ある程度修行をしてから悟りを開くとそんな感じになるのかもしれません。

一休さんの場合、「子供までいるのでやっぱりやりすぎじゃね?」とは思ってしまいます。

盲目の女性を側に置いたり、仏門の徒らしいこともしているのですけどね。

 

生臭な雰囲気が庶民にも人気?

まあそんな感じで、史実の一休宗純は一筋縄ではいかないタイプです。

「頭がいいのはわかるけど、お坊さんとしてはどうよ?」って感じですが、一般人からすると親しみを感じられたようで、さまざまな説話の元となりました。

中には真偽の怪しいものもあり、これはやはり「この人ならこんな考え方や行動をするに違いない」と見なされていたからなのでしょう。

有名どころでは

門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし

という歌を一休さんが詠んだという話がありますが、実際は違うようで。よく出来た歌のため、いかにも一休さんが言いそうではあるんですよね。

今は定説とされているものでも、こんな感じでいつの間にか作者が入れ替わってたりするのかもしれません。

それこそ「雨が降らば降れ」でしょう。

 

お墓の研究が進められず

大徳寺の住職に任じられたのは悟りを開いてから50年後(!)のことで、後土御門天皇の勅命だったといいます。

少なくとも朝廷には「徳の高さ」や「民衆からの人気」のほうが多く伝わっていたのでしょう。

一休はこれを受けて大徳寺だけでなく、いくつかのお寺の再興に努め、ますます世間に知られるようになりました。

亡くなったのは88歳で、当時としてはかなりの長生き。

上記の通り、思うままに生きたことがストレスを軽減したのかもしれません。

それでも最期の言葉が「死にたくない」だったあたり、何ともらしいというかなんというか。

ところで「一休さんのお墓」って聞いたことあります?

たぶん無い方が多いと思います。

それもそのはず、上記の通り落胤説が有力なため、宮内庁の管轄になっていて一般人は入れないからです。おそらく学術的な研究も無理でしょう。

副葬品から生前の人となりや愛用していたものなどがわかることも多いので、残念ではありますが……一休さんのことですから「何も入れるな」とか言っててもおかしくはないですね。答え合わせのしようもないですけれど。

あるいは別のお墓がある酬恩庵一休寺(しゅうおんあんいっきゅうじ・京都府京田辺市)には入れるので、一休さんの足跡をたどってみたい方は訪れてみるといいかもしれません。

酬恩庵一休寺

京都駅から電車や自動車で30分程度。

「京都市街の他にもどこか行ってみたい」なんてときによさそうです。


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【参考】
国史大辞典
一休宗純/Wikipedia
酬恩庵一休寺/Wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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