誰もが知っているような昔話を辿ってみたら、実は意外な内容だった――そんな話をお聞きになられたことがあるでしょうか。
わかりやすい例で言えば、桐生操さんの『本当は恐ろしいグリム童話(→amazon)』ですかね。
微妙な路線の違いはありますが、日本にも似たようなケースはあります。
文明13年(1481年)11月21日は一休さんこと一休宗純が亡くなった日です。
織田信長や細川忠興、石田三成など、数多の戦国武将のお墓がある大徳寺の住職を務められた御方……というよりも、そりゃまぁ「とんち話」で知られますよね。
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後小松天皇の落胤説が有力?
一休さんのトンチといえば
「橋の端を渡る」
「屏風に描かれた虎を捕まえる」
などが特に有名ですね。
では、史実の一休宗純は?
というと全く毛色の違う逸話が多々残っています。毛色というか対象年齢といったほうが相応しいかもしれません。
まずは生い立ちをたどるところから振り返ってみましょう。
僧侶によくあることで、途中何度か名前が変わっていますが、「一休」で統一します。
彼が生まれた直後のことはよくわかっていません。
「後小松天皇の落胤である」という説が囁かれています。
別にお忍びでどこかの女性とイチャコラしてたというわけではなく、お手がついたいいとこの女性が宮中から下がって一休を産んだ、と。
「◯◯は✕✕の落胤である」という話にはよくあるパターンですね。
弟子入りした翌年に師匠が亡くなる
一休宗純は6歳のときには仏の道に入っております。
いわば生え抜きの僧侶というわけですが、お経よりは詩作に精を出していた様子。
というのも、10代のうちに漢詩で京都中の話題となったことがあるのです。
お寺は教育機関という面も強かったですし、教養の高い人が詩を詠むということが珍しくない時代です。
そんなこんなで真面目なのか不真面目なのかよくわからんまま成長し、17歳で別のお寺に移り、謙翁宗為(けんおうそうい)というお坊さんのもとで勉強し直します。
しかし、です。
弟子入りの翌年、この方が亡くなってしまいます。
18歳という多感な年齢もあってか、一休はこれを深く悲しみ、一時は後を追おうとまでしたといわれています。
そこからどうにか立ち直り、今度は大徳寺の華叟宗曇(かそうそうどん)という僧侶に弟子入りして再び仏の道を歩みだしました。
「あろじより なろじへ帰る 一休み」
そもそも、なぜ一休という名前なのか。
実は一つの歌が関連しております。
一休は大徳寺で「洞山三頓」という公案を解き、そのときに詠んだ
あろじより なろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け
という歌から「一休」という同号を授けられたのです。
「あろじ」=有漏路は煩悩の多い現世
「なろじ」=無漏路は悟りの世界=あの世のことをさす
歌の大意としては
「現世からあの世に帰るまでのほんのわずかな間のことだから、雨が降ろうが風が吹こうが何をしようが問題ではない」
というところでしょうか。
似た話として、伊達政宗の遺訓にも「この世に客に来たと思えば何の苦しみもなし」という一説があります。
一休さんは禅宗の人ですし、政宗のお師匠様も禅宗の僧侶だったので、もしかしたら影響を受けたかもしれないですね。
なお「洞山三頓」自体をかなりザックリ言いますと、
「あるお坊さんがお師匠様にこれまでの旅程を話したらめっちゃ怒られた。なぜか?」
という話だと思うんですけど違いますかね。
え? そんな簡単に答えが出たら修行はいらん?
うん、確かにそうなんですよ……。
ちなみに「公案」というのは、禅宗での悟りを開くために用いられるクイズのようなものです。
正直、凡人には答えを聞いてもハテナしか出てこない話が多いやつ。
有名どころの「隻手の声」(※)なんかはわかりやすいですけどね。
「隻手の声」
両手を打ち合わせたときに音がするが、隻手(片手)ではどんな音になるか?という話。
おそらく「一人の片手では鳴らないが、別の人の片手とであれば音がする」、転じて「一人で何もかもやろうというのではなく、他人と協力することが大切である」というのが答え。
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