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【一休宗純】
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カラスがカーッと鳴いたからサトリ記念日
一休宗純独特の無常観が詠まれたこの歌。
この時点で禅宗の悟りを開いていてもおかしくなさそうなものですが、それは「一休」の名をもらってから五年後のことでした。
ある日の晩にカラスの鳴き声を聞いたのがきっかけといわれています。
お寺ですから、いろいろなものを目当てにカラスがやってくるのもおかしな話ではありませんけども、何となく腑に落ちないのはワタクシだけでしょうか。
そこから先が一休さんの場合、大問題だったりします。
普通、悟りの境地に至った僧侶って、巡礼なり布教なりそれらしいことをしますよね。
しかし、一休は、悟りを開いた後に煩悩の塊としか思えない言動をしている。
男色(今で言うBL)は僧侶の嗜みみたいなところがあったのでまだしも、女性もOKだったり、肉や酒を味わったり、「本当に悟り開いたの?」とツッコミたくなるようなことばかりやっていたといいます。
まあ、お釈迦様も「苦行とかやっても悟り開けないから意味ない」(超訳)みたいなことを仰ってたみたいなので、ある程度修行をしてから悟りを開くとそんな感じになるのかもしれません。
一休さんの場合、「子供までいるのでやっぱりやりすぎじゃね?」とは思ってしまいます。
盲目の女性を側に置いたり、仏門の徒らしいこともしているのですけどね。
生臭な雰囲気が庶民にも人気?
まあそんな感じで、史実の一休宗純は一筋縄ではいかないタイプです。
「頭がいいのはわかるけど、お坊さんとしてはどうよ?」って感じですが、一般人からすると親しみを感じられたようで、さまざまな説話の元となりました。
中には真偽の怪しいものもあり、これはやはり「この人ならこんな考え方や行動をするに違いない」と見なされていたからなのでしょう。
有名どころでは
門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし
という歌を一休さんが詠んだという話がありますが、実際は違うようで。よく出来た歌のため、いかにも一休さんが言いそうではあるんですよね。
今は定説とされているものでも、こんな感じでいつの間にか作者が入れ替わってたりするのかもしれません。
それこそ「雨が降らば降れ」でしょう。
お墓の研究が進められず
大徳寺の住職に任じられたのは悟りを開いてから50年後(!)のことで、後土御門天皇の勅命だったといいます。
少なくとも朝廷には「徳の高さ」や「民衆からの人気」のほうが多く伝わっていたのでしょう。
一休はこれを受けて大徳寺だけでなく、いくつかのお寺の再興に努め、ますます世間に知られるようになりました。
亡くなったのは88歳で、当時としてはかなりの長生き。
上記の通り、思うままに生きたことがストレスを軽減したのかもしれません。
それでも最期の言葉が「死にたくない」だったあたり、何ともらしいというかなんというか。
ところで「一休さんのお墓」って聞いたことあります?
たぶん無い方が多いと思います。
それもそのはず、上記の通り落胤説が有力なため、宮内庁の管轄になっていて一般人は入れないからです。おそらく学術的な研究も無理でしょう。
副葬品から生前の人となりや愛用していたものなどがわかることも多いので、残念ではありますが……一休さんのことですから「何も入れるな」とか言っててもおかしくはないですね。答え合わせのしようもないですけれど。
あるいは別のお墓がある酬恩庵一休寺(しゅうおんあんいっきゅうじ・京都府京田辺市)には入れるので、一休さんの足跡をたどってみたい方は訪れてみるといいかもしれません。
京都駅から電車や自動車で30分程度。
「京都市街の他にもどこか行ってみたい」なんてときによさそうです。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
一休宗純/Wikipedia
酬恩庵一休寺/Wikipedia