明治十九年(1886年)4月10日、木戸松子が亡くなりました。
維新三傑の一人・木戸孝允(桂小五郎)の妻ですね。
「幾松」という名前も知られておりますが、彼女の芸者としての名前で、先代から受け継いだものですから、今回は本名で統一しますね。
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松子の美貌と才能に惹かれた金持ちが
松子は天保14年(1843年)に生誕。幼少期のことは、あまりよくわかっていません。
幼名もいくつかの説がありますし、兄弟が何人いたのかも不明。
父親が小浜藩士、母親が医者の娘だったということはほぼ確定のようで、確実なのは、十代から京都のお店でお座敷に出ていたということです。
なぜ武家の娘が?
と思われるかもしれません。
実は松子の父親は、百姓一揆に巻き込まれた咎で謹慎を命じられてしまい、そして京都へ出奔してしまったのです。
残された家族も後に京都に出て暮らし始めたのですが……生活は困窮し、家計を支えるために彼女が舞妓になったのでした。
現代なら児童労働その他諸々でマズイですが、当時はむしろ当たり前。
持って生まれた美貌に加え、頭の回転も早く物覚えが良かった松子は、年齢と二代目幾松の名を上げていきます。
そこへやってくるようになったのが、将来の夫となる木戸孝允です。
まだ倒幕前の時期なので、正しくは桂小五郎ですね。
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そして二人は惹かれあっていくわけですが、いざ身請けしようという段階でひと悶着起きます。
松子の美貌と才に惹かれた別のお金持ちが、「そう簡単に渡すか!」とゴネ出したのです。
当時まだ木戸は一介の藩士に過ぎませんでしたから、真正面からやりあったところで勝てないのはわかりきっていました。
だからこそ相手も自信満々でこんなことを言ってきたのでしょう。
伊藤博文が刀を突きつけて直談判!
が、縁結びの神様は木戸に味方しました。
同じく長州藩の遊び人こと伊藤博文が、お金持ちの客に対し刀を突きつけて直談判したのです。総理、何してんすか(まだなってないけど)。
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あまりの剣幕にお金持ちは引っ込み、無事に木戸と松子は名実共に相思相愛となりました。
伊藤がいきなり出てくるのがマンガ的展開ですが、彼の芸者好きは既に有名だったそうなので、木戸が「身請けしたい人がいるんだが、ちょっと困っている」とか相談したんでしょうかね。
だからって刀が出てくるとは思わなかったでしょうけども。
とりあえず死傷者が出なかったのですから万々歳ですね。
しかし、ここからが木戸と松子にとっての正念場になりました。
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