東大史料編纂所・本郷和人教授のご著書『戦国武将の明暗(新潮新書)』(→amazon)が面白い。
週刊新潮の連載「戦国時代のROE」をまとめたものであり、教授定番の自虐的まえがき&あとがきは健在。
同時に戦国初心者にもかなり読みやすい文章で仕上げられている。
これまでも
「日本は一つじゃない」
「天皇家じゃなくて王家と呼んでみる」
など物議を醸してきた本郷教授の「定説を疑う」スタンスも活き活きとしていて、本書を読んでいるとつい戦国ファンの誰かに話したくなってしまう。
そんな同書のレビューをお送りしたい。
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小早川隊は15,000ではなく9,000弱?
「関ヶ原合戦での小早川秀秋は裏切り者なのか?」
本書でいきなり投げかけてくる疑問がこれ。
小早川はもともと豊臣秀吉の養子で、天下人の後継者として優遇されていた。
それなのに豊臣の恩顧を忘れて西軍から東軍に寝返った不届き者――というのが一般的な見方である。
本郷教授はずばりと斬り込む。
一時期、後継者だった彼の命運は豊臣秀頼が生まれてから暗転。
小早川家へ養子に出されると、朝鮮出兵では勇猛果敢に戦うが、わけの分からぬ理由によって領地を大幅に削られ、越前12万石に左遷させられた。
「そうした秀秋が、太閤さまのご恩などと言われても、なにをバカなという気持ちだったでしょう」と本書では指摘。
中井均氏の説をひいて「最初からむしろ東軍だよ」と読者の目からうろこを落とす。
また、面白いのが「石高」についての考察だ。
豊臣家の直轄地があり小早川は30万石ほど
関ヶ原時の小早川秀秋は「筑前・名島30万石」だったとする。
筑前・名島は、黒田官兵衛→黒田長政親子で知られる福岡藩の領地となる。
黒田家は52万石とされており、前任者の小早川も50万石というのが常識だ。
関ヶ原の布陣図で小早川隊15,000という数をよく見たことがあるだろう。この数字、推定石高100石あたり3人をかけたものだという。
ところが、この数字は帝国陸軍参謀本部編纂の「日本戦史・関原役」の解釈で、その数字が一人歩きしているだけだったと指摘。
関ヶ原の頃は筑前にはまだ豊臣家が直轄領20万石ほどを持っていて、そのため小早川分は30万石となるのが真実であった。
秀秋の領地は30万石。
すると、兵力も9000人くらい。8000とする史料があるようなので、ぼくはそちらが実数に近いのではないかと思っています。
それにしても大軍であることはまちがいありませんけれど。(本書21頁より)
これからは、小早川隊は9000人とするのが新しい見方になりそうだ。
関ヶ原にまつわる無数のおもしろいエピソードの中で、特筆すべきは、女性の従軍記(聞き取りノンフィクション)があることだ。
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