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【書評『戦国武将の明暗』】
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”関ヶ原”を戦った女はなぜ居場所を隠したのか?
女性の従軍記として注目したのが『おあむ物語』である。
岩波文庫で『雑兵物語・おあむ物語(→amazon)』の名で出版もされているので、ご存じの方もおられよう。
西軍の城にいた女性が、味方がとってきた敵の首を集め、女性たちが歯にお歯黒を塗って化粧を施すのだ。
目的は?
というと、どうでもいい雑兵の首をえらい武将のものに仕立て上げて、勲功を稼ぐためである。
戦国時代の息遣いが聞こえてくるようなリアルな描写は本当に面白く、本郷教授が謎解きをするのは、この「おあむ」さんがどの城にいたのかという謎解きだ。
書いてあることをそのまま見れば、大垣城(岐阜県)にいたことになっている。
関ヶ原の直前まで石田三成はじめ西軍が集結していた城だ。
ところが本郷教授はそれはないと断じる。
おあむさんは、石田三成の家臣の娘。
だから西軍の大垣城にいてもいいと思われるのだが…。
ここでよく分からないのは、「家中の内儀・娘たち」がなぜ大垣城にいたか、です。本来、合戦の場に、女性は帯同しないはずです。
(略)
おあむの記憶、もしくは物語の書き手の混乱・錯誤があるのでは? と疑うことができる。というのは寄せ手の大将として田中吉政(三河・岡崎10万石)がでてくるのですが、彼が参加したのは他の史料から明らかに、大垣城攻めではない。
三成の居城、佐和山城攻めなのです。
もしも話の舞台が佐和山城ならば、「家中の内儀・娘たち」がそこにいるのは当然、です。(本書164頁より)
では、なぜそんな間違いがあるのか。
戦乱期ゆえの混乱か、錯誤か?
でも、そんなことがありうる?
本郷教授は歴史探偵よろしく真相にさらに斬り込んでいく。
おあむはウソをついていて、実際には佐和山城にいたのではないか。
彼女の父の山田去暦は、石田家の上士でした。当時の武士の習いからすれば、城を枕に討ち死にして然るべき立場の人でした。
でも家康との縁を楯として、逃げ出した。
おあむはそれを恥じて、「佐和山」を自らの禁句にしたのではないか。(168頁)
なるほど、戦国ファンなら、うろこが何枚か落ちること間違いなしだ。
なお、この佐和山城とは、関ヶ原の戦い後、徳川家康の命令で攻めたもので【佐和山城の戦い】とも言われる。
詳細が以下の記事にあるのでよろしければ併せてご覧いただきたい。
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川和二十六・記
【参考】
『戦国武将の明暗 (新潮新書)』(→amazon)
『雑兵物語・おあむ物語 (岩波文庫)』(→amazon)