最も目立った死に様だったのは誰か?
そう問われて真っ先に頭に浮かぶのは、やはり源義経でしょう。
文治五年(1189年)4月30日に【衣川の戦い】で自害したとされ、2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも序盤における注目ポイントとなりました。
史実面から振り返ってみましょう。
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義経の到着後、頼りの秀衡が倒れてしまい
平家を倒すまで大活躍していた義経は、その後、自らアレコレやらかしてしまい、兄・頼朝と対立。
大天狗こと後白河法皇にも頼れず、京都から引かざるを得なくなり、かつて後押ししてくれた奥州藤原氏の下へ身を寄せることにします。
道中、静御前と別れたり、いろいろありましたが、何とか奥州へやってくることができました。
この道中に題材をとった歌舞伎『勧進帳』はフィクションですが、もしかしたら似たようなことはあったかもしれませんね。
奥州藤原氏の当主・秀衡は、昔と同じように義経を支援してくれました。
しかし、寄る年波には勝てず、秀衡は程なくして病に倒れてしまいます。
そして彼は、息子達に「兄弟力を合わせて、義経殿を旗頭として戦うのだ」と言い残して亡くなり、その後、跡を継いだのは次男かつ嫡子の泰衡でした。
頼朝からの圧力に屈したのは当主の泰衡!?
この頃の奥州藤原氏には、他に庶子ではありましたが長兄の国衡と、三男の忠衡がいました。
そこへ頼朝からキツめの手紙が届きます。
「ウチのバカ弟がそこにいるのはわかってんだよ! 差し出さないとどうなるかわかってるよな^^」(超訳)
木曽義仲を倒し、武田信義も制し、平家までも倒し、頼朝に時勢が向いているのは明らか。
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父の遺言と、迫る圧力を前にして、土壇場で三人の意見が割れ始めます。
とはいえ三つ巴というわけではなく、あろうことか一番先代の遺言を守るべき立場の泰衡がビビって「頼朝の言うことを聞こう」と言い出し、兄と弟が大反対するという構図でした。
しかし当主のほうが力が強いのも当たり前の話で、泰衡は強引に義経が起居していた衣川の館を襲います。
そう、義経を最終的に追い詰めたのは頼朝ではなく、奥州藤原氏でした。
泰衡はここに行き着くまでの間に自分の祖母や忠衡、そして末弟の頼衡も手にかけたといわれており、相当追い詰められた上に手段を選ばないような心理状況になっていたことがわかります。
国衡は庶子という引け目ゆえあまり強く出ることができませんでしたが、前々から家臣たちに能力を認められ、信頼も厚かったためかこのときは助かりました。
弁慶が、立ったまま全身に矢を受けて戦死
そもそも少ない手勢で奥州へやってきた義経です。
地元で即座に兵を用意できる藤原氏に勝てるわけがありません。
家臣たちは主を守ろうと奮戦しましたが、義経本人は抵抗をせず、機を見計らって妻子を手にかけ、自らも後を追います。
義経の忠臣として名高い武蔵坊弁慶は、主人を最期まで守り、立ったまま全身に矢を受けて戦死したといわれていますね。
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そして泰衡は、義経の首を差し出して頼朝にゴマをすりました。
が、何かと「制度」や「建前」を重んじる頼朝にとって、これは許せない暴挙。
おそらく頼朝としては、大人しく義経が連行されてきたら、説教するなり裁判をするなりして、誰の目にも義経の非を明らかにしてから処刑や流罪を決めるつもりだったのでしょう。
なのに首だけ届いたらそりゃ怒りますよね。
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