1543年7月12日、イングランド王ヘンリー8世が最後の妻キャサリン・パーと結婚しました。
「最後の妻」というと何だか純愛物のドラマのようですが、そんな美しい話ではありません。
というのも、ヘンリー8世はキャサリンの前に、5人もの妻に酷い仕打ちをした上で離婚をしていたからです。
一体どんな仕打ちだったのか? というと以下の通り。
1.キャサリン・オブ・アラゴン
スペインのお姫様で、元々はヘンリー8世の兄アーサーの妻でした。
しかし結婚からしてほどなくアーサーが病気で亡くなってしまい、スペインとイングランドの関係を維持するためヘンリー8世と結婚することになったのです。
しかしヘンリー8世との間に男子が産まれず、そうこうしているうちに王が後述のアン・ブーリンに心を移したため、無理やり離婚させられました。
2.アン・ブーリン
元は上記キャサリンの侍女でした。
若く美しく賢かったことからヘンリー8世を惹きつけ、王妃の地位を手に入れたものの、アンも女子しか産めなかったためやがて疎まれるようになります。
最終的に不貞の疑いをかけられ、斬首刑に処されてしまいました。
映画『ブーリン家の姉妹』は彼女と妹・メアリーを主人公とし、わかりやすくまとまっています。
3.ジェーン・シーモア
唯一となる男子を産んだ妃だったのですが、出産から一ヶ月もしないうちに亡くなってしまいました。
そのためヘンリー8世は次の王妃を求めるようになります。
4.アン・オブ・クレーヴズ
本人には落ち度がなかったものの、お見合い写真代わりにヘンリー8世へ送られた肖像画と全く異なる顔だったため、半年で離婚させられたといわれています。
しかし「王の妹」という称号や年金は与えられており、離婚後は王やその子供たちとの関係も悪くなかったようで、肖像画の件には疑問の余地も。
5.キャサリン・ハワード
上記アンの侍女だった人です。
結婚後に不貞を働いたと疑いをかけられ、激怒した王に処刑されました。
いかがでしょう?
ジェーン・シーモア以外の4人がヘンリー8世の都合で離婚・処刑されています。
そんな王様に求婚されたキャサリン・パーとは、一体どんな人物だったのか?
生涯を振り返ってみましょう。
※ヘンリー8世の妻だけでも「キャサリン」という名前の人が3人もいてややこしいため、本記事のキャサリンについては愛称の「ケイト」で記させていただきます
生い立ち
ケイトは1512年、騎士トマス・パーとキャサリン・オブ・アラゴンの女官モードの間に生まれました。
王妃が洗礼式の代母を務めたため、ファーストネームをもらったのだそうです。
こういう慣習があるので、西洋圏は同じ名前の人が多いんですよね。聖書由来の名前も非常に多いですし。
ケイトの後には妹アンと弟ウィリアムが生まれましたが、父とは早いうちに死別。
モードは夫を失った後も宮仕えを続け、女手一つで三人の子供を育て上げました。
モードは個室を与えられており、高級女官といった立ち位置だったので、再婚せずとも収入や立場を保てたと思われます。
また、母が女官ということから、ヘンリー8世の子供たちとも比較的身近に育ったようです。
二回の結婚
ケイトは17歳のとき、リンカンシャーの貴族エドワード・バラと最初の結婚をして、二年ほどで死別。
一年ほど置いて、今度はヨークシャーの貴族ジョン・ネヴィルと再婚しました。
ジョンには前妻との間に娘と息子が一人ずついて、ケイトは継母として二人の世話をしながら過ごします。
この頃の彼女自身は子供を授からず、愛情をもって彼らに接し、継子たちもケイトによく懐いたそうです。
長女でもあり、母が人のお世話をする仕事をしていたこともあり、自然と母性的な振る舞いが身についていたのかもしれませんね。
1537年にヨークシャーに反乱が起こり、ジョンも関与している疑いをかけられたため、自らロンドンに弁明しに行く……という出来事が起きました。
しかしその間に、ケイトと子供たちが人質になってしまうという一騒動が起きます。
幸いにしてなんとかジョン・ケイト一家は無事に済んだものの、心労がたたってか、ジョンが病気になってしまいます。
ケイトはロンドンのネヴィル邸に滞在し、献身的に夫の介護をするようになりました。
一方で、このころ妹のアンが宮廷に仕えており、ケイトはたびたび訪れたといいます。
夫に関する報告をそれとなく伝えておいて、家の立場が悪くならないように努める……なんて狙いもあったのでしょうか。
その中でヘンリー8世の3番めの妃だったジェーン・シーモアの兄トマスと親しくなったようです。
「もしもジョンが亡くなったら、彼と……」というのも考えていたようですし、だいぶ熱烈な手紙も書いているので、ガチ恋だったと思われます。
しかし、です。同時期に、ケイトの人となりがヘンリー8世の耳にも入ってしまいます。
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彼女は以下のように王妃として申し分ない条件を持ち合わせていました。
・プロテスタントであり、信仰の問題がない
・年齢的にもまだ子供を埋める余地がある
・実家のパー家が野心的なタイプではない
そしてヘンリー8世からケイトに申し入れが届きます。
ケイトだって、これまでの王妃がどうなったか?その結末は知っていました。
しかし、むやみに断れば、実家や継子たちにまで累が及ぶ可能性もあり、事実上、彼女に残された道は他にありませんでした。
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