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【キャサリン・パー】
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ヘンリー8世の妃として
ケイトは本心を押し隠しながら、1543年7月12日、ヘンリー8世の6回目の結婚相手になりました。
彼女は特に美人というわけではなかったようですが、教養と控えめな態度で、王だけでなく宮中の人々や王の子供たちをも惹きつけていきます。
特に気を配ったのが、王室の空気を家庭的にすることでした。
当時、ヘンリー8世の子供たちはそれぞれ別に暮らしており、あまり家族の繋がりを意識できずにいました。
これでは将来の連携もしにくく、敵対する可能性も高くなってしまいます。
そこでメアリー(1世)やエリザベス(1世)、そしてエドワードとの時間を大切にし、彼らがヘンリー8世に会う機会を増やして、家族意識を強めるきっかけを作ったのです。
また、王を説得してメアリーとエリザベスの王位継承権を復帰させたのもケイトでした。
彼女の努力により、王室一家の空気は格段に良くなったと思われます。
特にエリザベスはケイトを強く慕い、離れて暮らしているときも頻繁に手紙を書いていますし、エドワードともたびたび文通をしていますので、義母や弟への親近感を持っていたことがわかります。
メアリーとは4歳しか歳が変わらなかったので、義理の親子というより友人に近い付き合いだったようですね。
宗教への態度
ケイトの人格に触れる上で欠かせないのが、聖書に関する活動でしょう。
当時の法律で、女性や庶民は聖書を読んではならないことになっていて、英訳聖書も存在しながらあまり広まっていませんでした。
ケイトは学者や女官たちを集めて聖書を読む会を開催。
聖書を元にして「正しい生き方」を説いた本を出版したり、積極的に神の教えに触れる人々を増やそうとしました。
女性観については当時の一般的なもので「父や夫、息子に従うべき」という軸もありました。
しかし「女性が聖書を読んでいる」というだけで反抗心があると見なされるような時代でしたので、一時期、反逆を疑われ、逮捕されかけたことがあります。
ケイトは王に直接弁明する際、自らの女性観が聖書に違わないものであること、王への反骨心や他意は全くないことを穏やかな言葉で述べたといいます。
するとヘンリー8世も態度を和らげて疑いを解き、
「私達はこれまで通り、友人同士だ」
と笑顔になったとか。
これは文字通りの友人というよりは、「疑いを解いたぞ」という意思表示だったのでしょうね。
この後、ケイトを逮捕する予定でやって来た役人がヘンリー8世に罵倒されて追い返されたそうですので、その人は気の毒ですが。
摂政を任される
夫婦と家族の絆を深めた後の1544年、ヘンリー8世はフランスへ出征することになりました。
これには少々ややこしい事情がありまして……。
カトリックから離れて英国国教会を作ったことで、イングランドはヨーロッパ各国から格好の的になっていました。
その中でヘンリー8世は、神聖ローマ帝国の皇帝カール5世と手を結び、フランスを挟撃することにしたのです。
国王自身が遠征するとなると、王太子を摂政として留守を任せていくのがスタンダード。
しかし当時のエドワードはまだ7歳であり、とても国政を担える分別はありません。
そこで王は、ケイトを国王代理に任じました。
立場的にはエドワードの義母であるものの、彼女でなければならない理由となると少々薄くなります。
実務経験を重視するのなら、エドワードの母方の親戚から誰か選んでも良かったわけですし。
それほど、ヘンリー8世はケイトを信頼していたということですね。
ケイトは陣中のヘンリー8世にたびたび手紙を書き、政治的な報告の他にも子供たちの様子を伝え、親子の感情が途切れないように気を配りました。
王もそれに応え、返信には必ず子供たちのことが触れられていたといいます。
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