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【キャサリン・パー】
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王との死別
戦争を終えて無事に帰還したヘンリー8世。
その後、肥満や脚気に苦しみながら、1547年1月に崩御します。
エリザベスはケイトと共にシーン城、のちチェルシー宮殿に移り、エドワードがロンドンで王位を継ぎました。
エリザベスとエドワードは手紙のやり取りをしてお互いを励ましつつ、それぞれの道を歩んでいくことになります。この後のことを考えると切ない限りですが。
チェルシー宮殿ではエリザベスや、後に「9日間の女王」と称されるジェーン・グレイの後見役のような立ち位置を務めていました。
そんな中、かつて情熱的な恋をしたトマス・シーモアが密かに通ってくるように……。
ケイトも彼を嫌いになったわけではなかったので、再び親しくなっていきます。
四回目の結婚
1547年初夏、ケイトとトマスは密やかに結婚しました。
この頃ケイトはまだヘンリー8世の喪中だったので、後日エドワードの許可を得て公表しようということになったようです。
エドワードからすると義母と伯父の結婚ということになるので、反対する理由は特にありませんでしたが、世間体を重んじたとみられます。
陽気なトマスはチェルシー宮殿の空気を明るくし、エリザベスとの仲も良好で、ケイトも喜びました。
しかし、次第にエリザベスに戯れるなど、不穏な言動も見えるようになります。
産褥死
1548年に入るとケイトの妊娠がわかり、体調が思わしくない日が続きました。
そんな中でトマスとエリザベスがハグしているところを見てしまい、
「エリザベスに何か間違いや不貞な噂が立って、王位継承権が脅かされるようなことがあってはいけない」
と懸念します。
そこでトマスがこれ以上戯れないよう、弟の家臣アントニー・デニーとその妻にエリザベスを預けることにしました。
アントニーはヘンリー8世にも気に入られていた人であり、その妻レディ・ジョアンはケイトが主催していた聖書の会の常連だったので、人柄も能力も信頼できたためです。
エリザベスは聡明で優しい義母との別れを悲しみましたが、ケイトが
「未婚の女性は貞節を守ることを第一に考えなければなりません。ましてあなたの立場ならなおのことですよ」
と諭すと納得し、デニー夫妻の元へ移っていきました。
到着後、エリザベスはさっそくケイトに手紙を書き、ケイトも何度か手紙を送り、良い関係を保っています。
しかし……。
ケイトはその後1548年8月末に娘を産んだものの、産後の経過が悪く、9月頭に亡くなってしまいました。
エリザベスは深く嘆き悲しみ、エドワードの摂政(エドワード・シーモア)がそれを知って、宮廷医を遣わして治療させたとか……。
おそらく「義母の出産や子育てが一段落して、自分のほうも落ち着いたらまた会える」と思っていたのでしょうね。泣ける。
“血の繋がらない家族”というのは、歴史上はもちろん、現代の一般人でもままあって難しいことです。
しかしケイトの振る舞いを見ていると、「お互いの歩み寄りと、間に立ってくれる人がいるとどうにかなるのかも」という気もしてきます。
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長月 七紀・記
【参考】
石井 美樹子『エリザベス: 華麗なる孤独』(→amazon)
ほか