1689年2月13日はイングランドの名誉革命が終結した日です。
「王様の交代に関して血が流れなかったため、名誉ある革命と呼ばれた」
そんな風に言われてもいますが、この”無血”には色々な条件がついていました。
一体どういうことか?
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5段階でわかる15~17世紀のイングランド
宗教と王族が絡んで非常にややこしい話になりますので、まずはここに至るまでの経緯をざっくり振り返るところからいきましょう。
①ヘンリー8世(エリザベス1世の父)が男子を得るために離婚をしたがり、カトリックだと離婚がほぼできないので英国国教会(プロテスタント)を作る
↓
②超過激派カトリック・メアリー1世(ヘンリー8世の長女でエリザベス1世の異母姉)がプロテスタントをブッコロしまくる
↓
③エリザベス1世、国全体をプロテスタント主義にし、その次のジェームズ1世も引き継ぐ
↓
④清教徒革命(ピューリタン=イギリス国教会の一派 vs カトリック・イングランド王家)
↓
⑤名誉革命←今日ここ
かなりザックリですが、順番と「誰がどうしたか?」だけ把握していただければと思います。
以降は、名誉革命に直接関係してくる④と⑤のあたりをもう少し詳しく見て参りましょう。
清教徒革命で王制廃止→復活
名誉革命から遡ること数十年前。
エリザベス1世の跡を継いだジェームズ1世が亡くなり、彼の長男であるチャールズ1世がイングランド王となりました。
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チャールズ1世/wikipediaより引用
ジェームズ1世も議会とはなかなかうまく行っていませんでしたが、チャールズ1世は仲が悪いどころか、議会を無視するかのような行動をたびたび取ってしまいます。
勝手に課税したり、気に入らない者を逮捕したり、スコットランドに英国国教会を押し付けようとしたり……。
どれか一つだけでも国民の反感を買うには充分。
スコットランドやアイルランドにも似たような無茶振りをしようとしたため反乱が発生してしまいます。
うまく行かないことが多すぎて苛立ったチャールズ1世は、1642年1月に自ら兵を率いて議会へ突撃するという文字通りの暴挙に出ました。
これでは、国王自ら「議会なんぞ、国王の意志と武力の下に過ぎない!」と表明したも同然。
「そっちがその気ならこっちも武力で対抗だ!」と議会も兵力を持ち、国王派と全面対決となりました。
議会側の中心人物に清教徒が多かったため、この革命を【清教徒(ピューリタン)革命】と呼んでいます。
清教徒とは、英国国教会の中でカルヴァン(宗教改革で有名な人)の影響を受けた人々のことで、様々な派閥がありますがここでは割愛いたします。
この戦いは議会派の勝利。
チャールズ1世は斬首刑になってしまい、史上唯一の「処刑されたイングランド王」という不名誉な特徴を持つことになりました。
その後、議会派の指導者だったオリバー・クロムウェルを中心として新たな体制が築かれかけたのですが、オリバーが1658年に急死したことで頓挫。
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オリバー・クロムウェル/wikipediaより引用
王政復古の機運が高まり、大陸に亡命していたチャールズ1世の子・チャールズ2世を再び王として迎えることになりました。
彼は一体どんな政策で臨んだのか?
カトリック以外に王位継承者がいない!
議会や大臣を重んじ、父の轍を踏むまいと努力したチャールズ2世。
実は彼、大陸にいる間にひっそりとカトリックへ改宗していました。
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チャールズ2世/wikipediaより引用
当時はイングランドに帰れるかどうかわかりませんでしたし、フランスやスペインはカトリックですから、その方が生き延びられると思ったのでしょう。
しかしイングランドに帰っても信仰を変えず、徐々にカトリックへ好意的な態度を取り始め、反発を招くようになります。
当然議会もチャールズ2世を警戒。
イングランドで要職に付く場合は、国教会のしきたりに沿って宣誓しなければならないと定めました。
しかしこれによって、王位継承権第一位だったチャールズ2世の弟・ジェームズ2世がそれまで務めていた海軍総司令官を辞めることになってしまいます。
彼もまた、カトリックになっていたからです。
せっかく王政に戻したのに、その王位を継ぐ人がいなくなってしまっては元も子もないですが、100年近くプロテスタントが多数派だったイングランドで、カトリックの王を戴くことも難しく……。
逡巡の末、最終的に議会はこう考えるようになります。
「ジェームズ2世は兄王と大して歳が変わらないから、そう長く王位にとどまることはないだろう。その次の王位継承者になるジェームズの娘二人はプロテスタントだから、数年を乗り切ればなんとかなる」
ジェームズ2世の王位継承を認めたんですね。
政治に関する希望的観測って、だいたいロクなことになりません。
このときも実際そうでした。
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