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カトリックはやっぱりノーセンキュー!!
即位してからのジェームズ2世は露骨にカトリックを優遇し始めました。
無理やり議員や役人を辞めさせてカトリックの人に置き換えたり、宗教裁判を復活させたり、議会の承認無しに常備軍を設置したり。
やりたい放題やっていると、1688年6月になって王子ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートが生まれます。
彼の母メアリー・オブ・モデナはイタリア出身でカトリックでしたので、この王子もカトリックの洗礼を受けたことは想像に難くありません。
おそらく議会の面々は”ブラッディ・メアリー”ことメアリー1世の治世を思い出したことでしょう。
![](https://storage.bushoojapan.com/wp-content/uploads/2015/02/4d213b814b3e1284896deb5d0239af3e-1.jpg)
メアリー1世/wikipediaより引用
そして行動に移します。
「これ以上、宗教問題でイングランドを引っ掻き回されてたまるか!」
そう考えた議会は、ジェームズ2世の娘メアリーの嫁ぎ先であるオランダへ使いを送り、彼女の夫オラニエ公ウィレムに願い出ました。
「イングランドの自由と権利を守るため、兵を率いてこちらへお越しください!」
メアリーの夫であるという点以外にも、ウィレムは
・プロテスタントのリーダーとして、カトリックであるフランスのルイ14世と対抗していた
・ウィレムの母がチャールズ1世の娘であり、彼もイングランド王の血を引いている
信仰と血縁の上からも、イングランド王として戴くに相応しい人物だと見なされたようです。
「自国のお姫様の旦那さんとはいえ、外国の人をそんなあっさり王様にしちゃっていいの?」という気もしますが、こういった理由があってのことでした。
ともかくウィレムは、イングランド議会の求めに応じ、オランダ軍を率いてブリテン島南西部に上陸します。
ロンドンへ進軍する間、貴族たちやチャールズの次女(メアリーの妹)アンもウィレムに合流し、ジェームズ2世の味方は激減。
勝機がないことを悟ると、フランスへの亡命を決意し、入れ違いにウィリアムがロンドンに入りました。
立憲君主制のはじまり
翌1689年1月、仮の議会が招集され、国民の古来の権利と自由を守る旨の草案が作られました。
2月初旬にメアリーがオランダからロンドンにやって来て、この草案を夫婦で承認。
![](https://storage.bushoojapan.com/wp-content/uploads/2025/02/ff79c0a164fa6e7ed944c0c06456bcf1.jpg)
メアリー2世/wikipediaより引用
これが「権利(の)章典」として交付され、現代も効力を持ち続けています。
この法律では以下のように明言。
・国王は議会の許可無く徴税できない
・常備軍の設置には議会の許可が必要
・議会での演説や審議については、議会の外で弾劾されない(=言論の自由)
・カトリックは王位継承者になれない
今後のイングランド王はプロテスタントに限ることや、立憲君主制のはしりといえる仕組みが確立しました。
そしてウィレムは「ウィリアム3世」、メアリーは「メアリー2世」として共同統治を宣言するのです。
議会としてはメアリーを単独で王にしたかったようですが、前述の通りウィリアム3世にもイングランド王家の血が流れていましたので、ここは議会が折れました。
この時点でもう一度もめると、後述するジェームズ2世派が勢力を盛り返しかねませんでしたし。
![](https://storage.bushoojapan.com/wp-content/uploads/2014/06/32b0088f21e4a8313be6b05aa32502ff.jpg)
ウィリアム3世/wikipediaより引用
ロンドン”では”無血だから名誉革命
こうしてロンドンでは血を流さずに革命が終了したため、「名誉革命」と呼ばれることになったのですが……実はロンドン以外では流血沙汰が起きていました。
ジェームズ2世がフランス王ルイ14世から支援を受け、アイルランドに渡ってしばらく抵抗していたからです。
![](https://storage.bushoojapan.com/wp-content/uploads/2025/02/a34bf652437df35bcb85327b27229798.jpg)
ジェームズ2世/wikipediaより引用
アイルランドでは、名誉革命以前からイングランドのプロテスタント貴族によって統治されていました。
そのため現地のカトリックが持っていた土地が没収され続けており、アイルランドの人々はカトリックのジェームズ2世を支持することで、状況の改善を期待したのでしょう。
そうしたジェームズ支持派のことを「ジャコバイト」と呼びます。
もちろんウィリアム3世がこれを見逃すはずもなく、1690年に自らアイルランドへ遠征して打ち破りました。
その後、アイルランド議会にはプロテスタントが多数送られ、再びカトリックが迫害されていくようになります。
しかし、ジェームズ2世の子ジェームズ・フランシスや、さらにその子のチャールズ・エドワードも引き続きイングランド王を主張。
二人ともジャコバイトの支持とフランスの協力を得て軍事行動をしたため、この問題はもうしばらく尾を引くことになります。
1715年と1745年には大きな反乱も起きました。
つまりメアリー2世やその妹・アン女王、さらにその後のハノーヴァー朝初期くらいまで続いたわけで……。
血縁としてはかなり遠いハノーヴァー朝のジョージ1世や、その子・ジョージ2世からすると
「いつまでやっとんじゃアイツらは」
と呆れる気持ちもあったでしょうねぇ。
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長月 七紀・記
【参考】
『物語 イギリスの歴史(下) 清教徒・名誉革命からエリザベス2世まで (中公新書)』(→amazon)
近藤和彦『イギリス史10講』(→amazon)
日本大百科全書
世界大百科事典