1665年2月6日は、後にイギリス女王となるアン女王の誕生日です。
イギリスには「女王の代に栄える」というお約束というかお決まりというか、ジンクスのようなものがあります。
エリザベス1世やヴィクトリア女王がいい例ですね。
アンは恐らく、その中では一番目立たないのではないかと思われます。後年のイギリスの政治家に「優柔不断」と言われてしまっていたこともありますし。
しかし実は彼女、現代のイギリスにとって重要な立ち位置にいます。
どんな点なのか。彼女の生涯と共に見ていきましょう。
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王家の末娘として生まれ育つ
アンは1665年にジェームズ2世の末娘として生まれ、国教徒として育てられました。
小さい頃から勉強よりも体を動かすほうが好きだったらしく、乗馬なども好んでいたそうです。健康で体力がある感じだったんでしょうかね。
1683年にデンマークの王子ヨウエンと結婚。
例によって政略結婚ですが、夫婦仲は極めて良く、アンはなんと17回も妊娠しています。
しかし流産と死産を繰り返してしまい、生まれた直後からしばらくは育ったものの、その後病気で亡くなった子供も数名いて、育ち上がった人は一人もいませんでした。
これはアンの体質によるものだったようなのですが、それも後年の推測ですので、当人たちはさぞ辛かったことでしょう。
姉メアリーとの仲はあまり良くなかったようなのですけれども、1688年の名誉革命では姉の夫であるオラニエ公ウィレム(英名:ウィリアム)に味方しました。
姉夫婦の間にも子供がいなかったので、この時点でいずれアンに王位が回ってくる確率はかなり高く、それを見越してのことかもしれません。
後継者は早めに決めておくべし
アンの子供が育ち上がらなかったため、ウィリアム3世は自身の存命中に後継者に関する方針を定めておくことにしました。
実はアンの異母弟ジェームズもいたものの、彼はカトリックだったために議会から同意を得られませんでした。
教科書でおなじみの「権利の章典」でも
「今後王様になる人は絶対にカトリックじゃダメ!!!」(意訳)
と明記されています。
ヘンリー8世の時代然り、名誉革命然り、ブリテン島ではさんざんカトリック絡みの大騒動を経験していますから、明記しておかないとどうにもならないと判断されたんですね。
「イギリスには成文憲法がない(他の法律の集合体で事足りている)」といわれるようなお国柄の場所で、カトリックについてははっきり文章にしているわけですから、よほど懲りたんだろうな……という観が漂っているような気がします。
そこで「スチュアート家の血を引いているプロテスタント」という条件を満たす人物として、ジェームズ1世の外孫であるソフィアが選ばれました。
彼女は神聖ローマ帝国のハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストに嫁いでいたので、ドイツ語名「ゾフィー」でも知られています。
これを受けて、1701年に「アンの後は、ソフィア及びその子孫のみが王位継承者となる」という王位継承法が定められました。
ちなみにこれは現代のイギリスでも有効で、そのため王位継承順が数百位まで定められています。
実際に継承の可能性があるのはせいぜい10位くらいまででしょうが、一般人としては「ゾフィーの子孫リスト」みたいな感じで見るのが良いんじゃないでしょうか。
その一人であるヴィクトリア女王が子沢山であっちこっちの王家に嫁いだので、文字通りの裾広がりになっています。
話をアンに戻しましょう。
王位継承とお気に入り
1702年、ウィリアム3世の崩御により、アンが王位を継ぎました。
夫のヨウエンはジョージという英語名に改めましたが、共同君主にはならず、「王配」として扱われました。
海軍総司令という重職は与えられており、ジョージもそれで依存なかったようです。
ここでゴネられると面倒だったでしょうね。
アンには、夫の他にもう一人頼れる人がいました。
サラ・ジェニングスといい、ジェームズ2世の二番目の妃メアリーの女官だった人です。
彼女はアンの5歳上で、姉妹のように仲が良かったとされています。
映画「女王陛下のお気に入り」にも登場しているため、そちらでご記憶の方もいらっしゃるでしょうか。
サラは一時結婚や出産で休んだことはあるものの、少女時代から長きに渡ってアンを支えました。
また、サラの夫であるマールバラ公ジョン・チャーチルも、イングランドにとって欠かせない人物となりました。
姓でわかる通り、かの有名なイギリス首相ウィンストン・チャーチルの先祖に当たる人です。
ダイアナ元妃の先祖でもありますね。
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