伊豆討ち入り

北条早雲こと伊勢宗瑞/wikipediaより引用

北条家

戦国時代の北条家は早雲の「伊豆討ち入り」から関東へ進出~戦乱の火に油を注ぐ

明応二年(1493年)10月11日、北条早雲が【伊豆討ち入り】を成功させ、関東の戦国時代にガソリンを撒き散らしました。

と、これが冗談とも言えませんでして。

実際のところ、早雲が伊豆に居を構えて関東へと進出していってから、戦乱戦火は拡大し、周囲一帯は争いの日々に陥るのです。

なお、早雲自身は「北条」氏を名乗ったことがないのですが、わかりやすさ優先で進めて参りますね。

北条早雲/wikipediaより引用

 


伊豆討入りを敢行したのは幕府のエリート

小説やドラマでは「一介の素浪人から成り上がった」とされている北条早雲。

最近の研究では「最初からそこそこの身分だったんじゃない?」という見方が有力になっています。

元の名前は伊勢盛時といい、室町幕府の中でも重職といえる申次衆(もうしつぎしゅう)の一人だったとされるのです。

武士や大名が将軍に会うとき、取次ぎやそれに伴う雑務処理を担当する役職で、特定の家出身でないとつくことができませんでした。

伊勢氏もそのうちの一つで、伊勢盛時の名が記載された史料が見つかっています。

まあ、小説では一代で大名になったほうが盛り上がりますからね。詳細は、以下の記事をご覧ください。

北条早雲
北条早雲はどうやって戦乱の関東に拠点を築いた?正体は幕府のエリート伊勢宗瑞

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ではどうして早雲が関東に来たのか?

キッカケは、早雲の姉妹いずれかの嫁ぎ先である駿河の大大名・今川家のお家騒動でした。

これを上手く治めた功績により、早雲は今川家で出世していくのです。

既に中央では【応仁の乱】が起きており、京都で戦乱に巻き込まれるのを避けたのかもしれません。

漫画『センゴク』では、すぐに京都へ戻る予定という設定で描かれておりました通り、一度、戻ってはいるんですが、今川家が再度ゴタゴタを起こしたせいで再び舞い戻ります。

そして【伊豆討入り】と相成るのです。

 


「足利氏のお家騒動」が全ての原因

さて、本題の伊豆討ち入りです。

これまた大きく括ると「足利氏のお家騒動」という一言に集約されてしまいます。

もうちょっと詳しく見てみましょう。

当時、関東を仕切っていた足利氏の家系は公方くぼう(将軍クラス)と呼ばれ、そうした家格の一族が三つもあり、さらに関東管領・上杉家も絡んできて彼等も分裂するので、とにかくややこしくなります。

「お前ら身内で何やってんだよ!」とツッコミたくりますが、当時は「兄弟は他人の始まり」どころか「血縁者は一番の敵」みたいな時代ですからね。

要は、血縁者同士での利権争いがハンパじゃなかった。

 


鎌倉公方・古河公方・堀越公方

公方三兄弟の一つ目は、鎌倉公方です。

文字通り鎌倉に本拠を構えていた家で、ここの足利成氏(あしかがなりうじ)という人が「もう幕府なんて落ち目じゃね?オレの時代じゃね!?」と壮大な勘違いをして反乱を起こしたのが一連の騒動のキッカケです。

当然、幕府も見過ごせませんから、近場の今川家に命じて討伐軍を出させます。

成氏は、あっさり負けました。

そして古河こが(現・茨城県古河市)まで逃亡しますと、性懲りもなく【公方】を名乗り続けます。

これが二つ目の【古河公方】です。

鎌倉公方だった人が古河公方になったので、実質的には一つと数えてもいいかもしれませんね。

古河公方は後々、関東管領上杉家を巻き込んでまたドンパチをやらかし【立河原の戦い】の遠因をつくっています。

最後は堀越公方です。

これは元々空席になっていた鎌倉公方に、新しく就くはずだった足利政知(まさとも・八代将軍義政のお兄さん)が、成氏側の妨害にあって鎌倉に辿り付けず、伊豆半島の堀越というところに根付いて公方と呼ばれるようになったものです。

不穏な空気が流れ始めた中で、堀越公方の政知があっさり死亡。

問題になったのが跡継ぎでした。ドタバタの末、ようやく落ち着いてきたのに、後継者がはっきりとは決められていなかったのです。

残されたのは、母親の違う兄弟が二人……うーん。

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