こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【伊豆討ち入り】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お約束どおりの兄弟げんか
残された兄弟は、長男が茶々丸で、次男が潤童子(じゅんどうじ)でした。
島津四兄弟みたいに仲良く手を組めばよいものを、こともあろうか茶々丸は、潤童子とその母親まで殺し、無理やり跡を継ぐのです。
それでしばらくはうまくいっていたのですが、京都で出家していた三男が還俗して、新しく室町11代将軍になったことから事態が急変します。
足利義澄(よしずみ)と名を改めた将軍は、足利政知の三男。
つまりは茶々丸と潤童子と兄弟であり、そのうち潤童子とは同じ母親から生まれた兄弟でした。
当然、茶々丸が憎くて仕方ありません。
仇討ちに燃える義澄。
まず茶々丸のいた堀越御所に近い武将へ「オレの兄貴とカーチャンの仇を討て!」と命じました。
ここで白羽の矢が立ったのが早雲です。
【伊豆討ち入り】は、もともと将軍様のご命令だったんですね。
早雲は念入りに下調べと工作を行い、堀越御所の内情や茶々丸の横暴ぶり、領民が疲弊していることを掴みます。
同時に「あのバカ殿がいなくなれば、もっと暮らしが良くなるよな!皆もそう思うだろ?」と触れ回らせて、内部から茶々丸への反抗心を煽っていきました。
『軍記物語』では早雲自ら密偵をしたと書かれていますが、はてさて。
堀越公方候補を追い出して大名に
こうして周辺の状況をつぶさに調べ上げた早雲は、伊豆全体の兵が手薄になるのを見計らって一気に夜襲をかけ、茶々丸を堀越御所から追い出しました。
茶々丸は往生際悪く抵抗します。
が、伊豆の国人(地元の有力者)を味方につけた早雲のほうが圧倒的に有利。
こうして早雲はまず伊豆半島を手に入れ、戦国大名としてのデビューを飾ったのでした。
※左が早雲本拠地の興国寺城(黄色)で、右下の拠点が堀越御所(赤色)
ちなみに仇討ちを命じた義澄は早雲に褒美をくれたのかというと、京都での政権争いでそれどころではありません。
いや、もしかすると褒美のそぶりがないから早雲も
「なら伊豆もらっちゃうけどいいよね!働いたのワシだし!」
と思ったのかもしれません。
「切り取り勝手」=「自分で攻めて勝ち取った土地は自分のものにしていい」って言葉もありますしね。
この後、早雲=後北条家が台頭してくると、それまでごちゃごちゃしていた関東は更に戦乱戦火が拡大し、本格的な戦国時代に突入していくことになります。
応仁の乱だけじゃなく、結局、関東での争いもキッカケは将軍家だったりするんですよね。
あわせて読みたい関連記事
北条早雲はどうやって戦乱の関東に拠点を築いた?正体は幕府のエリート伊勢宗瑞
続きを見る
北条氏綱~早雲の跡を継いだ名将はどうやって関東へ躍進した?55年の生涯まとめ
続きを見る
北条氏康は信玄や謙信と渡りあった名将也~関東を制した相模の獅子 57年の生涯
続きを見る
北条氏政が暗愚だから小田原は陥落した? 信玄や謙信と戦った名将の生涯53年
続きを見る
秀吉に滅ぼされた北条氏直は愚将か否か~早雲以来の関東覇者一族は小田原に散る
続きを見る
11代将軍・足利義澄が身内争いの日々に追われた理由とは~32年の生涯まとめ
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦 『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
北条早雲/wikipedia