1947年(昭和二十二年)6月25日は、「アンネの日記」が初めて出版された日です。
この本そのものについては、今更説明する必要性がないほど知られておりますが、今回は日記には書かれていない部分も含めて、アンネ・フランクの生涯をみていきましょう。
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1929年ユダヤ系ドイツ人の家に生まれる
アンネの正式な名前は、アンネリース・マリー・フランク。
「アンネ」は愛称です。
同様に、彼女の姉マルゴットも、日記中などでは「マルゴー」と呼ばれています。欧米圏あるあるですね。
アンネは1929年のフランクフルトで、ユダヤ系ドイツ人の父オットーと母エーディトの間に生まれました。
家は比較的裕福でしたが、この頃のドイツは第一次世界大戦後の賠償金でてんやわんやです。
フランク家の家計も苦しくなってきたため、オットーの実家に身を寄せておりました。
ただ、この時点ではまだ旅行やショッピングを楽しむ余裕はありました。
ユダヤ系への迫害が強まったのは、例のヒトラーが首相になる、アンネ4歳の頃。
首相就任の年だけでも、6万人以上のユダヤ系ドイツ人が亡命したといいますから、その影響力たるや……というところです。
ナチスは大手を振ってユダヤ系起業を潰し、堂々と差別を始めます。
子供たちも例外ではなく、学校で差別されたり、まともに授業が受けられなくなったりと、嫌がらせが始まりました。
こういった経緯で、我が子の将来と身の危険を感じたオットーは、親戚のツテを頼りにアムステルダムへ移ることを決めます。
比較的難民に寛容であり、仕事や住む場所も確保できると考えたからです。
第二次世界大戦が始まるとオランダにも独軍が
まずはオットーだけがアムステルダムへ移り、生活の基盤を整えてから家族を呼び寄せました。
アンネもマルゴーもそれぞれ教育を受けられるようになり、友だちもできました。
ここまでは、うまくいったのです。
しかし、アンネ10歳のときにドイツがポーランド侵攻を行い、第二次世界大戦が始まると、オランダも無関係ではいられませんでした。
オランダセフとしては中立を宣言していたのですけれども、ヒトラーが「オランダはイギリス軍機の通行を許可している。つまり連合国だから俺達の敵だ!」という屁理屈で、侵攻を開始したのです。
このときオランダから亡命しようとする人もいましたが、船が少なく、成功した人は多くはありませんでした。
フランク家は亡命せず、身を潜めることを選びます。この頃には母方の祖母ローザも同居しており、さらに子供が二人いるとあって、逃亡が難しいと考えたのです。
一方、オランダ王室や政府は亡命を果たし、オランダの人々はドイツの占領を受けることになりました。
表紙に赤と白のチェック模様が入ったサイン帳
翌年には隣国ベルギー、続いてフランスもドイツに降伏。
この辺りからオランダでもユダヤ系の迫害が始まります。
少しずつ公共施設や娯楽施設への立ち入りが禁止され、外出時間を制限され……というように、堅苦しい生活を強いられていきました。
アンネやマルゴーは友達と遊ぶこともできなくなってしまい、つまらない生活になっていきます。
そんな状況の中で迎えたアンネ13歳の誕生日。
こういう状況ですから、豪勢に誕生日を祝うことはできなかったでしょう。
父からのプレゼントは、表紙に赤と白のチェック模様が入ったサイン帳でした。
1942年――これが今日世界中で出版されている「アンネの日記」の原稿となります。
自由に出歩きにくくなった状態で「他人に書いてもらうのが前提のサイン帳」をプレゼントにするというトーチャンのセンスが少々気になりますが……。おそらく「お、このノート可愛い。アンネ好きそうだから買ってってやろ」とか、軽い気持ちで選んだんでしょうね。
トーチャンの愛はいつも不器用だけど深いんや。
日記の内容については、お読みになったことがある人も多いでしょうから割愛しますね。
未読の方にとってはネタバレになってしまいますし。
ごくごく簡単にいえば、今日世界中で出版されているとは思えないほど、普通の少女の日常が書かれています。
思春期特有の……といってもいいかもしれません。
ありふれた形容詞ではありますが、それだけ古今東西、人間の成長過程はそうそう変わらないということでしょう。
異性への興味や同性の親への反発、不自由ながらも将来の夢を抱くことなど、この時代や彼女のような立場でなくても、世界中多くの人が経てきた、あるいは現在進行形で体験していることでしょう。
召集命令を無視して暮らした長くて短い2年間
「日記」とはいえ、アンネは架空の友達への手紙として書いていたので、毎日つけていたわけではありませんでした。
しかしそれだけに、心情や当時の状況がリアルに感じ取れます。
アンネはこのサイン帳をもらったその日から日記をつけ始めましたが、有名な「隠れ家」に移り住んだのはその一ヶ月弱ほど後のことです。
ナチスから強制労働収容所への召集命令が届き、その対策のため、オットーの会社で働いていたオランダ人ミープ・ヒースと夫のヤン・ヒースに隠れ家を用意してもらったのでした。
ほとんどのユダヤ系の人々が召集命令を受け取ると同時に逃げていたので、フランク一家の失踪も、この時は深く追求されませんでした。
また、オットーは元住んでいた家に「スイスへ亡命する」という手紙を残していたので、その通りに信じられたようです。
隠れ家の「表」にあたる部分にはヒース夫妻が働いており、これによってフランク一家は2年間という長くて短い間、生き延びることができました。
一週間後には同じユダヤ系ドイツ人のペルス一家、そしてフリッツ・プフェファーというやはりユダヤ系ドイツ人の医師がやってきて、8人という大所帯の生活が始まります。
最初はマルゴーとアンネが同室だったのですうが、プフェファーがやってきてからはアレルギーなどの問題で、アンネとプフェファーが同室になっていたとか。
事情が事情とはいえ、思春期の女の子と中年男性を同じ部屋にするのはどうかという気がしますね。
何者かの通報によっ終わりを告げる 1944
隠れ家生活はただでさえ息の詰まる状態な上に、プフェファーとは折り合いが悪かったアンネは、やがて母エーディトとも対立するようになってしまいます。
現代の我々が「日記」を読むと、エーディトは母親として娘のことを心配していたのだろうとも思えるのですがね。
隠れ家生活の後半ではアンネもそれに気づき、少し反省していたようです。
同性の親を乗り越えることは、人間にとって欠かせない成長過程ですよね。
しかし、1944年8月4日。
何者かの通報によって、一時の安寧は終わりを告げます。
当局がやってきて、隠れ家に住んでいた8人を連行していったのです。
このとき荷物もあさられ、「日記」は床に転がり落ちたといわれています。
アンネは将来「日記」を出版したいと考えており、そのために登場人物の名前を変えて書いたり、いろいろな工夫をしていました。
それだけ大切なものでしたが、アンネは黙ったまま耐えていたそうです。
表で生活していた人々のうち男性は連行されましたが、女性たちは助かりました。
隠れ家メンバーを最も助けていたミープは、皆が連行されていった後、急いで隠れ家を調べ、そこで床に落ちていた「日記」を見つけたといいます。
ミープは戦後まで、これを大切に保管していました。
アウシュビッツ同様に劣悪なベルゲン・ベルゼン収容所へ
隠れ家の8人は他のユダヤ系の人々と一緒に列車で同じ収容所に送られた後、アウシュヴィッツに再度移送され、さらに男女に分けられて、しばらく強制労働に従事していたといわれています。
アンネはその状況の中でも希望を捨てず、同い年くらいの少女を見つけてはおしゃべりをしたり、列車でも窓の外の景色を楽しんでいたとか。
父たち男性陣とはすぐ引き離されてしまいましたが、女子収容所の中では家族でまとまって過ごしていた、ということが生存者の証言でわかっています。
しかし、母エーディトとマルゴー・アンネ姉妹はさらに引き離されて、アウシュヴィッツからベルゲン・ベルゼンという別の収容所に送られました。
今ではアウシュヴィッツが最悪の収容所といわれていますが、ベルゲン・ベルゼンも相当のものでした。
食料はさらに少なく、伝染病もはびこっていて、死者が続出していたのです。
アンネは元々体が丈夫なほうではありませんでしたし、そうでなくても隠れ家暮らしの頃から満足に栄養を取っていなかったので、どんどん弱っていってしまいました。
マルゴーも同様です。
そんな中で僅かな希望は、旧知のブリレスレイペル姉妹や、同じ隠れ家に住んでいたペルス家の婦人アウグステ、親友ハンネと再会できたことでした。
しかし、まず姉のマルゴーがチフスにかかり、その後アンネもやはりチフスで亡くなったといわれています。
ハンネによると、アンネの姿を見なくなったのは1945年2月末ごろですから、そのあたりにはチフスにかかっていたと思われます。
オランダ赤十字では、もっと長く見て3月31日を命日としているようです。
父のオットーだけがアムステルダムへ帰国し……
隠れ家のメンバーは姉妹の他にもほとんど亡くなり、オットーだけが生還しました。
オットーは第一次世界大戦ではドイツで軍役についていたので、体力があったのでしょう。
それでも、身長が180cmあるのに体重が52kg(あるいはそれ以下)まで落ち、1945年1月下旬にアウシュヴィッツの病棟にいたところをソ連軍に解放されたそうですから、本当にギリギリのタイミング。
オットーはその後しばらく療養した後開放され、ポーランドのカトヴィツェという町で再会した知人から、妻エーディトの最期を聞きました。
エーディトはアウシュヴィッツで1945年1月上旬に亡くなったといわれていますので、すぐ近くで妻が亡くなっていたことになります。
オットーはもちろん、相当の衝撃を受けました。
しかし、娘達が生きていることを信じて、東欧を大回りしてアムステルダムへ帰国。
ヒース夫妻や多くの親戚、友人がオットーを支援し、仕事や住居を手に入れることができました。
彼はお金を稼げるようになってからも、私腹を肥やそうとはしませんでした。
同じように生還したユダヤ系の人々の支援に、特にアンネの親友・ハンネとその妹のため、そして娘達の行方を探すために使いました。
ですが、彼は間もなく、ベルゲン・ベルゼンでアンネやマルゴーと一緒にいた人物から、二人の死を聞かされました。
妻に続いて娘二人も苦しみ抜いて亡くなったことを知り、オットーは真っ青な顔で崩れ落ちたそうで……。
ミープも姉妹の帰りを待っていました。アンネに日記を返すためです。
しかしその望みがなくなってしまった今、日記はオットーが持つべきだと考えます。
1947年、ついにオランダ語の初版を発行
アンネは上記の通り、日記をいつか出版したいと考えておりました。
そのため父から贈られたサイン帳の他、手帳や300枚以上の紙を使って清書もしています。
ミープからこれらを受け取り、すべてを読んだオットーは、娘の原稿をさらに編集・翻訳し、親戚や友人に配布。
友人の大学講師から、公的に出版することを薦められました。
オットーも娘の遺志を実現したいとは思っていましたが、内容が内容であるだけに、なかなか出版してくれる会社が見つかりません。
初稿には性的な記述もかなり入っていたため、そういった面でも出版を渋られたようです。
しかし、ある歴史家が新聞にレビューを書いてくれたことで、出版をしてくれる会社が見つかりました。
そして1947年のこの日、オランダ語の初版が出版されたのです。
最初は「後ろの家」(=隠れ家)というタイトルでしたが、1950年にドイツ語・フランス語が出版された際、「アンネ・フランクの日記」と改題され、以降こちらのタイトルが主流になりました。
その後、1952年には英語・日本語版が出版され、1955年にニューヨークの舞台に、さらに1957年には映画になっています。
実際に彼らが住んでいた隠れ家は取り壊されそうになりましたが、保存のためにアンネ・フランク財団が設立され、周辺の土地ごと隠れ家を保存しています。
オットーも、娘が書き残したメッセージを世界に伝えるため、1980年に亡くなるまで活動を続けました。
彼の死後、日記の著作権や関連する資料・遺品はアンネ・フランク基金という財団法人が管理しています。
また、アンネは「日記」の他にいくつかの短編小説を書いていて、タイトルがわかるものもいくつかあるのですが、出版されているかどうかはわかりませんでした。
「日記」自体にも初稿・本人の清書・オットーの編纂後の三つの版があるためややこしいのですが。
なぜ一般人の日記が発表されないのだろう
現在「完全版」とされているのは初稿に近いもの、「研究版」は三つの版の比較や原稿の真贋などの資料を含めたものです。
小学生向けの物語調のものもありますね。
どうせなら、アンネの小説を含めた「真・完全版」みたいなものも出版してほしいものです。
概要がわかっているようなので、原稿が消滅してしまったわけではなさそうですし。
余談ですが、彼女の名前と「小説」で調べると、「日記」の捏造説の話になっちゃうんですよね。
関心の有無が分かれる話ですし、当コーナーでは基本的にスタンダードな説のほうを取り上げるスタンスですので、ここでは扱いませんけども。
現地では一応決着が付いてるみたいですし。
個人的には、この日記の真贋よりも、彼女のような一般人の日記で、これほど多く出版されているものがないことのほうが気になります。
当時文字を書くことができた人はそれこそ星の数ほどいるわけですし、日記を書いていた人物も相当数いたでしょう。
なのに、「戦中の一般人が書いた日記」が出版されるケースが異様に少ないのは何故でしょうか。
軍属の人の回想録などはありますが。
アメリカ人のチャールズ・リンドバーグという人の日記があるのですけれども、彼は民間人としてアメリカ軍に協力しているので、一般人に含めていいものかどうかビミョーなところです。
百歩譲って、戦争の当事者(国)のものはそれどころではない、空襲で焼けてしまったにしても、ほぼ中立だったスイスやスペイン、ポルトガル、もしくは戦場になっていないアメリカの一般人の手記の中に、出版に値するものがあってもいいような気がしません?
別に初稿が素人のものでも、編集・推敲すれば出版はできるでしょう。
調べが甘いだけだったらスミマセン。
いずれにせよ、アンネの日記はいろいろと考えるきっかけになる本です。
図書館にも必ず置いてありますし、手に入れやすさはダントツですから、まだ読んだことのない方も、少しずつ読んでみてはいかがでしょうか。
長月 七紀・記
【参考】
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アンネの日記/Wikipedia