成功した大名や実業家の話は「一代で成し遂げた」というものが多いですよね。
最も有名なのは豊臣秀吉でしょうか。
しかし、公家や武家のように長い歴史を持っている家であれば、何代もかけて大きなことを成し遂げるのも珍しくはありません。「御湯殿の上の日記」のように、作者個々人の名前が残っていなくても、貴重な史料となるものもあります。
本日は平安時代から続く、とある家の代々記といった感じのお話です。
宝暦三年(1753年)7月21日は、第五代高鍋藩主・秋月種弘が亡くなった日です。
当コーナー何度目かの「誰?」コールが来そうですが、実はとある偉大な人物のジーちゃんです。
正解はしばらく下のほうで。
まずは、秋月家のある意味スゴイ成り立ちからみていきましょう。
秋月家伝説
in平安時代
反乱を起こした藤原純友を討った大蔵春実が秋月家の祖先
春実は褒美として、領地と太宰府の役人の職を与えられる
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in源平時代
平家から源氏に鞍替えしたが、頼朝にあまり信頼されず、少弐・島津・大友など鎌倉幕府の命でやってきた東国武士の下になる
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in南北朝時代
“敗走してきた”足利尊氏と戦って負ける
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in戦国時代
大内・大友・毛利の間で行ったり来たりしているうちに一度滅亡\(^o^)/
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in秀吉時代
島津義久につき、一時36万石になるが秀吉の九州征伐でおじゃん
名器「楢柴肩衝」を献上して、日向国高鍋への移封で勘弁してもらう
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in関が原
西軍の将として大垣城(現・岐阜県大垣市)にいたが、東軍勝利の報を聞いて寝返る
その功績で家康から日向国高鍋を安堵される
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in江戸時代初期
高鍋藩として存続するが、朝鮮の役から大坂の陣までの出費で財政破綻寸前
二代藩主・種春の頃、家老親子に40年(!)も藩政を乗っ取られるお家騒動が起きる
三代藩主・種信が家老親子と愉快な仲間たちを処罰してめでたしめでたし?
身分制度の再編や農地の整備、人材の登用などなど
……というわけで、「戦には強くないなりに、何とか生き残ってきた(ただし一度滅亡している)」というのが秋月家です。
粘り強いといえばいいんですかね。
しかしこんな状態では、ただでさえ世情も気候も厳しい江戸時代で、何も問題が起きないわけがありません。
第五代種弘の時代も、そういう時期でした。
種弘のジーちゃん・種信がお家騒動のカタをつけてくれていたものの、40年の間に高鍋藩は見るも無残な状態。
これを補うため身分制度の再編や農地の整備、治水工事、人材の登用などなど、幅広い事業や改革が必要になります。
種弘も、祖父や父にならってそういった政策を執り、さらに藩の中で優秀な人物を遊学させ、地元を潤わせる人材になってもらおうとしました。
しかし「させねーよwww」といわんばかりに享保の大飢饉がぶち当たり、さらに高鍋藩内では火事が頻発、家計にまで火がつくという悲惨な状態に陥ります。
秋月種美の息子・上杉鷹山は養子に出て大活躍
一応、息子の種美(”たねみ”または”たねみつ”)が16歳になったときに家督を譲ってはいるのですが、種弘は「こんな状況で、まだ若い息子がうまくやっていけるだろうか」と思ったのか、死ぬまで実権を手放さなかったといわれています。
そのため、種美は35歳になるまで直接藩政を執ることができませんでした。
しかし、その間ただハンケチを噛んでいたわけではなく、父の背中から大いに学んでいたようです。
「国の第一は人材」と考え、父の代に引き続いて藩士の遊学を勧め、広く人材を求めました。この方針を、種美の息子たちも引き継いでいきます。
第七代高鍋藩主・秋月種茂と、「家計が炎の大車輪」状態の上杉家を救った上杉鷹山です。
鷹山の功績については今更という感が強いですし、人柄に関する話も以前取り上げていますので、ここでは省略しますね。
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種茂も父と同じく16歳で家督を継ぎましたが、種美と異なりさっそく親政を行うことになりました。
まだまだ楽とはいえない藩政を立て直すために、やはり人材育成が急務と考えます。
しかし父や祖父とは異なり、遊学させるのではなく「藩内に学校を作って、武士だけでなく庶民も教育し、良い人材を育てていこう」という方針をとりました。
高鍋で知識をひけらかすと恥をかくぞ
こうして安永七年(1778年)に作られたのが、「明倫堂」という藩校です。
字面が好ましいからか、同じ名前の藩校は全国各地にあったようですね。
明倫堂には農民なども入学でき、8~9歳ごろから書道や数学、論語など漢籍の素読を行っていたとされています。
庶民の学校である寺子屋が「読み書き算盤」、武士しか行けない藩校が「エリート養成校」ならば、明倫堂はその中間といったところでしょうか。
明倫堂で教育を受けた人はそれなりに多かったらしく、いつしか「高鍋で学者ぶるな」ということわざまでできました。
パッと見わかりづらい言葉ですが、意味としては「高鍋には良い教育を受けた人がたくさんいるから、よそ者が中途半端に知識をひけらかすと恥をかくぞ」というものです。いやー耳が痛い。
最近は、鷹山などの優れた為政者の話もよく知られるようになってきました。
鷹山が17歳で米沢藩主を継いだとき、「受けつぎて 国の司の 身となれば 忘るまじきは 民の父母」という歌を詠み、藩士だけでなく一般庶民にまで慈愛の心を持って政務に取り組んだ……という話をご存じの方も多いでしょう。
本人の才覚だけではなく、そこに至るまでに実家の秋月家で代々作られてきた下地があってこそ、だったんですね。
上記の通り秋月家の人は先祖代々苦労をしていますが、子孫がこのように大成し、後世にも尊敬されていると知って、草葉の陰で嬉し涙を流しているかもしれません。
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
『戦国武将合戦事典』(→amazon link)
秋月種弘/wikipedia
秋月種美/wikipedia
秋月種茂/wikipedia
明倫堂/wikipedia
秋月氏/wikipedia