例によって、この名前は本名ではありません。
本名は「ルキウス・セプティミウス・バッシアヌス」という”ローマ皇帝あるある”な長いものです。
「カラカラ」というのは、彼が小さい頃からよく着ていたフード付きマント(もしくはチュニック)だそうで。
顔つきや行動からあだ名が決まることは多いですが、服装由来というのはなかなか珍しい気がしますね。どんだけ着てたんだよ。
父が亡くなり弟のゲタと後継者争い
カラカラは、先代皇帝セプティミウス・セウェルスの息子です。
父のセプティマスがまだ元老院議員だった188年に生まれました。
21歳のとき、弟のゲタ(全名:プブリウス・セプティミウス・ゲタ)と共に共同皇帝として指名されたため、このときをもって即位とみなしています。
これまた「あるある」な話ですが、父の存命中は名ばかりの位でした。
そして、父が遠征先の属州ブリタニア・エボラクム(現在のイギリス・ヨーク)で客死すると、早速皇帝として動き始めます。このときカラカラとゲタも同行していたのですが、内政を優先し、直ちに戦闘をやめて帰国しました。
が、帰国早々、二人は「自分こそが唯一の皇帝になるべきだ」として、争い始めます。
頭が二つあるとうまくいかないもんですよね。
そもそも、父は「次の皇帝は長男のカラカラに」と言っていたらしいのですが……母であるユリア・ドムナが「ゲタにも皇帝になる権利があるんですよ。
共同統治させればいいじゃありませんか」と反対したために、カラカラは単独での即位ができなかったのです。
これでは、混乱が起きるのも無理はありません。
一度は争いに疲れ、「領地を半分こしてそれぞれ治めようか」と話がまとまりかけたのですが、母ユリア・ドムナが「分割するとよけいうまくいかないわよ」と反対し、兄弟喧嘩が続きます。カーチャンちょっと黙ってて(´・ω・`)
とはいえ、このカーチャンは当時の女性としては珍しく、セプティミウス・セウェルスの行軍にも従ったという度胸ある人でした。兄弟喧嘩の間に入るくらい、お茶の子さいさいだったでしょうね。母は強し。
カーチャンの用意した和解の席でブッコロシ!
数年しても埒が明かないので、ついにカラカラは弟をブッコロす覚悟を決めます。
それも「カーチャンが用意した和解の席で」で実行するのでした。
ユリア・ドムナが駆けつけたとき、既にゲタは虫の息。
そのまま息を引き取ったそうです。カーチャンへの見せしめだったかもしれませんね。
時代がだいぶ後のことになりますが、「兄弟の争いで兄が勝った」「母親が強く関与していた」というケースは、まるで織田信長・織田信行(信勝)兄弟のようです。
ただし、信長に比べて、カラカラが弟に対して抱いていた憎しみはずっと激しいものでした。
ゲタに対しダムナティオ・メモリアエ(記録の抹消)を命じたのです。共同統治者としてカラカラとゲタの肖像が描かれた通貨や絵画から、ゲタの姿を全て削り取らせ、ゲタ単独の胸像も壊させています。
さらに、ゲタに味方する素振りを見せていた人々を数多く処刑し、ゲタの存在を完全に抹消しようとしました。まあ、それでも今日に至るまでゲタの名と生涯は語り継がれているわけですが。
その後のカラカラの政治は、良いところと悪いところが入り混じっていて判断に困るところです。
・銀貨の改鋳
→インフレを招いた
・アントニヌス勅令の施行
→属州民もローマ市民として認め、人権と義務を課した法律
税収増を狙ったが、ローマの習慣が(元)属州民に通用せず反感を招く
・アレマンニ族(ドイツ南西部のゲルマン系民族連合)との戦争
→金を払って兵を退いてもらう、という屈辱を味わっている
・アレクサンドリア(現・エジプト)の虐殺
→同地でゲタの暗殺を非難する詩が流行ったことにカラカラが激怒
一度は「それは誤解だ。事の経緯を話すから、皆集まるように」と発表したのに、いざアレクサンドリアに着くと、集まった民衆を虐殺させた
犠牲者は数千~2万といわれており、カラカラが「残虐な皇帝」と評価される最大の原因となった
・軍の人気を勝ち取るために行動した
→給料や軍事費を上げたり、共に食事をしたり、資材を運んだりしている
ただし軍事費の増加は、この時代から次第に財政を圧迫するようになっていく
・カラカラ浴場の建設
→225m×185mの敷地に建てられた大規模浴場
現在も遺構が残っており、推定38.5mほどの高さがあったという
当時は浴槽が2000~3000も設けられており、今でいうところの冷水プールやサウナ、ジム、セントラルヒーティングにあたる設備もあった
現代のフィットネスクラブのようなところか
遠征中に道端で用を足していたら護衛の兵士が
とまぁ、歴史に名を残す人は良くも悪くも極端な傾向がありますが、カラカラもその一人といえるでしょう。
しかし、その最期を見れば、やはり悪い印象のほうが強かったであろうことはうかがえます。
カラカラは浴場建設と並行してパルティア帝国(現在のイラン~中央アジアにあった国・ローマと度々戦争をしていた)と戦う計画を立てていたようで、その準備中に護衛の兵士に刺殺されたのです。
一説には、行軍中に道端で用を足しているところを刺されたのだとか。もしこれが本当だったら、「絶対に迎えたくない最期」ランキングワースト1に輝く(?)でしょうね。
日本史屈指の嫌な死に様を遂げた源義朝や頼家(二人とも入浴中に暗殺された説アリ)も「(いろんな意味で)お前ほどじゃない」と言いそうです。
カラカラを殺した兵は私怨で凶行に及んだといわれていますが、次の皇帝となったマクリヌスによる暗殺だった、という説もあります。当時マクリヌスは近衛隊長であり、この職に就いていた人が帝位を狙うことも多かったためです。うわー臭い。
暗殺の実行犯は、その直後に他の兵に殺されました。
現代では暴君のイメージが強いカラカラにも、仇を討ってくれる人はいたということです。
上記の通り、カラカラが軍のご機嫌取りをしていたからかもしれませんし、近衛兵の職務を果たしただけ、という見方もありますが。守る相手死んでるけど。
今ではカラカラというと、上記の浴場のほうが有名ですね。
観光地でもあるし、最近では競技会場や音楽イベントなどで使われているとか。
まさか風呂場がそういう用途になるとは、カラカラも思わなかったでしょうけども。
長月 七紀・記
【参考】
カラカラ/Wikipedia
『ローマ皇帝歴代誌』(→amazon link)