1796年(日本では江戸時代・寛政八年)3月4日は、中国・清王朝で【白蓮教徒の乱】が始まったとされる日です。
あまり知名度が高くない=歴史に及ぼした影響が少ない、というのっけから最大のネタバレをしつつ、コトの経緯をみていきましょう。
革命思想が強くなりすぎて禁教令
白蓮教とは、これより600年ほど前、つまり12世紀の南宋時代に始まった――中国固有の宗教です。
教団幹部が妻帯者だったりして。
当時から中国王朝や他宗教から異端視されていました。
教義としてはマニ教(中東発祥の善悪がはっきりした宗教)と仏教の弥勒信仰を足して割ったようなものです。
元の時代にメジャーになりかけ、革命思想が強くなりすぎたために、何度も禁教令を出されています。
弥勒信仰の中に「下生信仰」があり、この中の「近いうちに弥勒菩薩がこの世に転生し、衆生を救ってくれる」というところが革命と結びついたと思われます。
そりゃ皇帝からすれば面白くない話ですよね。
明の創始者・朱元璋も、当初は白蓮教徒で、白蓮教が起こした「紅巾の乱」に参加して元を倒しました。
しかし、皇帝になってから「あれ、これ俺にとって不都合じゃね?」と思うようになったようで、弾圧しています。ひでぇ。
ちなみに文字違いで「黄巾の乱」だと後漢末期の話になってしまうので、学生の方は注意したほうがいいかもしれません。
三国志関連のゲームで知名度が増したので、間違える人はだいぶ減った気はしますが。
リーダーがバラバラなら、神様もバラバラって
時が流れ、清朝になってからも白蓮教は外部から「ヤバイ団体」と思われていました。
この頃には民間信仰が入って教義がかなり変質。
「無生老母」という神様に近い存在が、「劫」という世界の終末に「使い」を送って特別な信者を救ってくれるというものになっています。
キリスト教にも近い感じがしますね。
死後の救済を求める宗教はだいたい似通いますけれども。
宗教内では教えが確立しておらず、この「使い」も弥勒菩薩だったり阿弥陀如来だったりバラバラだったそうです。
お釈迦様の立場は一体……。
ついでにいえば、教団のリーダーもバラバラだったり、「白蓮教」という呼び名も教団側が名乗ったものではなかったり……。
もしかしたら、教団外の人間が似通った教義の教団をまとめて呼んでいたのが定着したのかもしれませんね。
鎮圧にあたった兄弟が余計にこじらせる
この頃の清は全盛期です。
同時に、官僚の腐敗や地方の貧困という問題も抱えておりました。
小さな反乱もいくつか起きており、中には白蓮教に吸収された団体もあります。
その代表者の一人・劉之協が当局に捕まって脱走したことが【白蓮教徒の乱】の発端。
ときの皇帝・乾隆帝は、ヘシェン・ヘリェンという兄弟に劉之協の鎮圧を任せます。
ヘシェンが文字コード制限のせいで表記できないので、兄弟両方ともカタカナで統一しますね。
この兄弟がヒドかった。
手段を選ばなさすぎて無実の市民が大勢犠牲になった上、官僚がどさくさに紛れて民衆から金を巻き上げる。
そんなカオスに陥ったのです。
もう、そいつら自体が「乱」じゃねーか?という。
漢民族の自警団が立ち上がり
1795年に乾隆帝が嘉慶帝に譲位すると、さらに混乱は極まります。代替わりのときってそんなもんですよね。
白蓮教の主導により湖北省で反乱が起き、陝西省・四川省・河南省・甘粛省に広がっていきました。
大雑把にいえば、中国の中~西部あたりです。
白蓮教徒たちは「戦って死ねば来世で幸せになれる」と信じ込んでるから怖い。
他の農民なども信じ込ませて数十万人を動員したのですからヤバイです。
一方、清の正規軍は平和が長すぎて役に立たなくなっており、鎮圧に手こずります。
代わりに功績を挙げたのが、漢民族主体の義勇兵や各地の自警団だったでした。
用語では、郷勇・団練といいますね。
いわずもがな、清王朝の支配者層は満州族です。アチャー(ノ∀`)
長引いたせいで軍費は莫大
そもそも白蓮教側も一枚岩ではありません。
士気の高い郷勇・団練が現れると、その前に次々と敗れ、1798年には主導者二人が自害。
翌年にトーチャンの乾隆帝が亡くなった事により、嘉慶帝が親政を始めてヘシェンを追い落としました。
さらに、そこから二年のうちに白蓮教側の代表者が相次いで自害したことで、やっと乱は収まります。
勃発から6年ほど経ってからのことでした。
こんなgdgdな状況だったので、明王朝に対した影響はさほど大きくありません。
しかし、鎮圧までに長引いたせいで軍費は莫大になり、政府軍の不甲斐なさも露呈しました。
それでもこの後半世紀も清王朝は続きます。
長月 七紀・記
【参考】
白蓮教徒の乱/Wikipedia
白蓮教/Wikipedia
弥勒菩薩/Wikipedia