室町時代の「変」や「乱」って、ほとんどが将軍権力の奪い合いです。
むろん各大名家の家督争いなんかも含まれますが、基本的には
「次の将軍は◯◯だろ!」
という軸があり、その周囲に別の権力集団が群がるカタチですね。
そこで、こんな風に思ったりしません?
この頃の将軍って弱すぎ……。
ヤル気あんのか……と。
本日は、そんな既成概念をぶっ壊す【永禄の変(1565年)】に注目。
1565年と言えば、もはや完全に戦国時代であり(桶狭間の戦いが1560年)、その中でも
「凄い死に方ランキング」
で上位に入るのではないか?という将軍の最期です。
何がインパクト大なのか? というと、13代将軍の足利義輝自ら、刀を握って敵襲に応戦し、そして壮絶に討ち死にするところでしょう。
本稿では、前後の政治史や時代背景を押さえつつ、振り返ってみたいと思います。
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将軍の生命すら懸念されるカオス
1467年に始まり、京都を火の海にした【応仁の乱】。
細川政元の手により将軍がすげ替えられた1493年の【明応の政変】。
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この両事件をもって日本は引き返すことのデキない戦国時代へ突入したとされ、室町幕府では将軍の生命すら懸念されるカオスに脅かされておりました。
むろん、足利将軍家とて手をこまねいているばかりじゃありません。
何とかして自分たちの地位を安定させたい――そのために十二代将軍・足利義晴も、失われた権威と実権を取り戻すため、本来は味方であるはずの管領・細川氏も含めて戦い続けていました。
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【永禄の変】加害者側となる三好氏は、もともと室町幕府の管領を担ってきた細川氏の家臣筋です。
その細川氏が政元以降、当主と管領の座を巡って分裂しまくり、三好氏はその戦のために畿内を転戦していました。
しかし、細川晴元が管領の地位に落ち着くと、三好氏の力はかえって邪魔になります。
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そして享禄五年(1532年)6月。
当時の三好氏当主である三好元長は【飯盛城の戦い】で、晴元と手を組んだ一向一揆に敗死してしまいました。
さんざん利用しておいてヒドイ……でも、これが戦国なのよね……。
長慶が新当主 いったんは細川と和解するものの……
当主を失った三好氏は代替わりし、元長の息子である三好長慶が当主となりました。
まだこの時点では元服も済ませていないような少年でしたが、早くから頭角を現し、細川晴元軍とも戦います。
その後は晴元が
「長慶はまだ若年だし、今帰参するなら許してもいいよ」(超訳)
という態度を取ったため、長慶はこの話に乗って細川氏へ戻りました。
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その後、長慶が晴元の武将として働いていると、領地問題でちょっとしたトラブルが起きます。
長慶の父・元長が生前与えられていた河内の代官職を長慶が望むと、晴元が聞き入れなかったのです。
元長の死後、この職には同族の三好政長が就いていました。
この両者(元長と政長)、三好家内でも非常に仲が悪く、政長が度々晴元に「元長の野郎、こんなことを企んでますよ!」といった讒言をしていたといわれています。
そんな人が一度手に入れた職をそう簡単に譲るはずもありません。
晴元からしても、ここであっさり長慶に代官職を与えてしまったら、今度は政長から恨みを買うことになります。
晴元や政長はそんな感じでナァナァにしたがりましたが、長慶は納得しきれません。そりゃそうだ。
六角氏の仲介で和議が成立する
かくして、間にいくつかの別件を挟んで天文十八年(1549年)、長慶は政長を討ち取ります。
これを危惧した細川晴元は、前将軍・足利義晴と十三代将軍・足利義輝を連れて近江坂本へ逃げました。
事実上の人質です。
しかしその間に、今度は長慶が京都を掌握し、実質的には政権交代が起きるのです。
晴元から見ると
「将軍を人質にして優位に立ったと思ったら、力がなさすぎて意味がなかった」
という感じになります。あぁ、涙目。
ここからしばらく、近畿を手中に収めた長慶と、京都に戻りたい義輝&晴元の対立が続きます。
権力的には長慶が有利。
戦力的には近江守護・六角氏を味方につけた足利義輝らに有利でした。
そして永禄元年(1558年)、六角義賢の仲介で、やっと和議が成立します。
和議は、長慶が以下の条件を受け入れることです。
・晴元が隠居すること
・細川氏の家督は親戚の氏綱が継ぐこと
・晴元の息子聡明丸(後の昭元)を幕府の中枢に据えること
・義輝の上洛
これで公的には足利義輝の側近となり、一応、話も丸く収まったかに見えました。
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