永禄の変

永禄の変にて壮絶に散った13代将軍・足利義輝/wikipediaより引用

足利家

敵に囲まれた13代将軍・足利義輝が自らの刀で応戦「永禄の変」の顛末とその後

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次々に身内が脱落し、そして長慶自らも

先に動いたのは細川晴元でした。

晴元が再び挙兵すると義輝も呼応し、再び三好長慶と対立します。

一方の長慶は、自身の病気に加え、弟の十河一存と三好実休、そして嫡男・三好義興など、身近な親族を立て続けに亡くし、その影響なのか、徐々に判断力を失っていきます。

残っていた弟の安宅冬康も、家臣からの讒言で自害。

実に、長慶の居城・飯盛山城に呼び出されての死となりました(長慶により殺害されたという説も)。

飯盛山城の模型(大東市歴史民俗資料館所蔵)/wikipediaより引用

次々に親族が死にゆくなか、永禄七年(1564年)には長慶自身もついにこの世を去ります。

この間、足利義輝は、全国の戦国大名へ合戦の調停を行なったり、幕府の役職を与えたりして、権威回復に努めていました。

特に、三代将軍・足利義満以来、ほぼ伊勢氏が独占していた政所執事の座を奪い、義輝の義理のイトコにあたる摂津晴門に同職を与えたことは、将軍親政の足がかりとなりました。

政所は室町幕府の財政と領地関係の訴訟を扱う役所です。

将軍の権力や統治と密接に関わっていますね。

義輝からすると、何をやるにしても、ここをおさえなければいけなかったワケです。

※北条早雲こと伊勢宗瑞もこの伊勢一族ですから、単なる浪人どころかきちんとした一族だったことがご理解いただけるでしょう

 


三好や松永を恐れて逃亡なんてもってのほか!

足利義輝の行った親政は、当人にとっていいことばかりじゃありません。

特に、残った三好一族の危機感を強めてしまったのは、結果的に失敗でした。

長慶亡き後の三好氏では、長慶の甥・三好義継が当主になっていたのですが、彼は若すぎて実権は皆無に等しい状態。

三好三人衆と呼ばれる重臣三人と松永久秀が中心となっておりました。

2020年3月に高槻市の市立しろあと歴史館が発表した松永久秀の肖像画/wikipediaより引用

彼らは当然ながら義輝を敵視し、

「あの将軍、くそウゼーな!」(超訳)

という方針を固め、さっそく動き始めます。

義輝側でも不穏な空気を感じておりました。

二条御所の堀や土塁を強固にするなど、いざというときに備えます。

ルイス・フロイス『日本史』によると、永禄の変前日、義輝は一旦京を離れようとして、御所から出ていたそうです。

しかし、義輝の近臣たちが「三好や松永を恐れて逃げ出すなんて、将軍の権威を失墜させることになる」と大反対。

義輝も死出の旅の伴をする気満々の彼らに対し、「それでも俺は逃げる!!」とは言えず、御所に戻っています。

こんな流れだと、なんだかその人たちが義輝暗殺に一枚噛んでいそうな気さえしますが、乗り込まれた後の行動を見るとそうでもなさそうです。

現代の我々からすると

「権威のために命を捨てるとか本末転倒じゃね?」

と言いたくなってしまいますがね。そこは当時の価値観ですから……。

 


「征夷大将軍が兵を直接率いて戦った」稀有な例

かたや三好三人衆と松永軍は、当時行われていた御所の門の改修が済む前に決着をつけてしまおうと考えました。

清水寺の参詣を名目として、約1万の兵を率いて市中に入り、一気に御所へ。

「将軍に訴訟あり」として、取次を求めます。

この訴訟自体が嘘か本当か、なかなか怪しいところであり「最初から殺害目的ではなかった」とする見方もできたりします。

要は、三好松永勢は、武力を背景に将軍へ圧力(御所巻・ごしょまき)をかけたというのですね。

しかし、結局、この直後に攻撃が開始されてしまい、真実は不明。

義輝は、既に完全に包囲されたといっていい状況でしたが、近臣たちはよく応戦しました。

十数名で三好方の数十人を討ち取ったそうですから、単純に考えて一人で二人以上倒しているわけで、士気の高さがうかがえます。

彼らの抵抗は、将軍を守るためというよりも、名誉を保たせるための時間稼ぎだったのかもしれません。

まず側近の一人・進士晴舎(しんじ はるいえ)が、敵の侵入を許したことの詫びとして、義輝の御前で切腹しました。

義輝はその後、近臣たち一人一人と最後の盃を交わし、三十名ほどを率いて自ら討って出たといいます。

これが日本史上稀に見る

「征夷大将軍が兵を直接率いて戦った」

瞬間でもありました。

義輝自身も剣豪・塚原卜伝や剣聖・上泉信綱に教えを受けていたとされるだけあり、自ら薙刀を振るい、その後、手元にあった刀で応戦したといわれています。

このとき「名刀を畳に予め突き刺しておき、切れなくなっては次々に持ち替えていた」という図で語られることが多いのですが、出典が頼山陽『日本外史』という江戸時代のものであり、後世の脚色である可能性が高いでしょう。

ただし、フロイス『日本史』でも「刀や薙刀で応戦した」という記録があり、将軍自ら戦ったこと自体は間違いなさそうです。

まあ、この状況で

「鞘から出してすぐ使えるようにする」

「それでいて自分が怪我をしにくい状態を保つ」

を兼ねるには、畳に突き刺すのがベストかもしれませんね。

また、このとき現代でも国宝となっている名刀中の名刀「三日月宗近」を義輝が使っていた、という話もありますが、これも確実な史料ではないようです。

現在残っている三日月宗近の刀身からすると、このような荒っぽい状況で使われてはいなさそうです。

そもそも、三日月宗近は伝来にはっきりしない部分が多いため、義輝が持っていた可能性についても確定はできないそうで。

 

義輝の家族も、多くが乱の被害者となり

このように奮戦した義輝主従も、やはり多勢に無勢というもの。

当日、在京していた公家・山科言継の日記『言継卿記』によれば、この日の正午過ぎあたりには側近が全員討死あるいは自害し、義輝も自害したといいます。

ちなみに主犯の一人とされる松永久秀は、永禄の変当日は京都ではなく大和にいたようで、足利義昭の書状からすると、久秀個人としては将軍家に対して手荒なことをするつもりはなかったようです。

完全に冤罪ですね。

義輝の家族も、多くがこの乱の被害者となりました。

・義輝の弟
鹿苑院院主・周暠(しゅうこう)三好方に殺される

・義輝の母
慶寿院(近衛尚通の娘にして十二代将軍・足利義晴の正室)自害

・義輝側室
小侍従(進士晴舎の娘)義輝の子を身ごもっていたため殺害される

義輝の正室である近衛稙家の娘は、実家の近衛家へ送り届けられました。

また、義輝のもう一人の弟であり、当時は興福寺一乗院の門跡を務めていた覚慶(後の足利義昭)も助かっています。

足利義昭/wikipediaより引用

二ヶ月ほど軟禁状態に置かれた後、細川藤孝やその兄・三淵藤英、さらには甲賀の和田惟政らに救出されるという流れでしたので、なかなか大変でしたが。

このあと義昭は、六角氏や若狭武田氏などを頼って転々と移動し、朝倉氏の元へ身を寄せることになります。

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