小谷城の戦い

浅井・朝倉家

小谷城の戦い(信長vs長政)で浅井滅亡~なぜ難攻不落の山城が陥落?

近江の戦国大名浅井長政の居城といえば小谷城

琵琶湖の東に位置しており、その脇には北陸へ向かう北国街道あり、南には城下町と、東の岐阜方面からやってくる街道あり――。

さすが戦国時代の「五大山城」の一つに数えられるだけあって、全国でも屈指の堅城として知られる。

一体こんな難所を織田信長はどうやって攻略したのか?

浅井長政公自刃の地

天正元年(1573年)8月8日は【小谷城の戦い】が始まった日。

そこで本稿では、『第一回城郭検定』で当時最上位の2級を取得し、本サイトで城郭関連の連載を担っている”お城野郎”にこの戦いを解説してもらった。

同時に注目したのが宮下英樹氏の傑作漫画『センゴク』(→amazon)である。

このマンガ作品は、これまでの戦国モノと違い、細かな部分でのリアル描写を追求したことでも知られる。

信長vs長政の最終決戦となった【小谷城の戦い】においても、殺伐とした山城の様子が描かれ、戦国ファンを唸らせたが、なぜ、こだわりの強い城マニアをも納得させたのか。

440年前に思いを馳せながら、小谷城の攻略法と描写について迫ってみたい(以下、お城野郎による本文)。

 

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小谷城の落城は大嶽城攻略がポイントだった

ども、お城野郎です。

大河ドラマ『麒麟がくる』ではスルーされてしまった【小谷城の戦い】。

漫画『センゴク』では、豊臣秀吉軍がまず小谷城の正面玄関「大手門」を突破していた。

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自軍のを引き倒して押し入った漫画の描写が史実かどうかは不明だ。

が、小谷城攻めの前に秀吉の調略でかなりの数の浅井家臣を味方に引き入れており、織田信長は大嶽城(おおづくじょう)に籠る朝倉軍を蹴散らし、すでに押さえていた。

さらには越前まで追いかけて、朝倉家を滅亡させている。

実は、この大嶽城攻略が大きなポイントだった。

小谷城とその周辺の拠点一群は地理的にはV字型に並んでおり、大嶽城はV字の頂点に位置している。

小谷城跡の曲輪分布図(国土画像情報(カラー空中写真)に加筆)/wikipediaより引用

V字型の城は、Vの頂点を押さえられると弱い傾向がある。

たとえば難攻不落で知られる高天神城もV字型に拠点が並んでいたが、頂点を押さえられて落とされていた。

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つまり、小谷城は大嶽城を奪われた時点で、ほぼ詰んでいたとも言えるのだ。

なぜならすでに滅亡させられていた朝倉軍からの救援(後詰め)は期待できず、そうなれば城兵の士気も一気に低下してしまう。

ゆえに攻略自体はさほど難しいものではなかったであろう。

後に秀吉が中国地方で、兵糧攻めや水攻めで毛利方の城をじっくり落としていった状況と比較すると、その差がわかりやすいかもしれない。

水攻めをされていた城兵たちは、まだ毛利の救援を期待できた。

よって士気も下がらないので、攻め手の織田家は毛利の後詰めにも備えなければならず、ゆえにジックリ攻めるしかなかった。

 

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一方、小谷城に籠る浅井長政も、それまでは何度も織田軍の攻撃を撃退していた。

朝倉軍の後詰めが存在していたからである。

しかし、朝倉義景の死亡により、その後詰めが消えてしまった。

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孤立無援で、ほぼ裸に等しい状態だった小谷城は、その後、約1日、しかも秀吉の手勢だけで攻め落とされている。

いくら堅固な城でも、孤立無援で士気が下がった城は本当に脆い。

まさに「人は石垣 人は城」なのである。

 

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竪堀という防御施設はそう簡単には登れない

ここまでお膳立てがあったから、織田軍(特に秀吉)は、味方にも多大な犠牲が出る攻城戦を強行したのであろう。

士気は相当に高く、勝算は十分にあった。

万が一にも失敗しない自信があり、「小谷城よ、おまえはもう死んでいる」状態である。

そんな背景を踏まえると小谷城の大手門突破も、さほど難しいものではなかっただろう。

浅井軍も大手門で守備するより、小谷城の各曲輪に籠った方が城の防御能力を十分に活かせて、兵力差を補える。

漫画『センゴク』では、大手門を突破した秀吉配下の仙石秀久藤堂高虎、可児才蔵が、その次に「竪堀(たてぼり)」の突破を計っていた。

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竪堀は、そうやすやすと登れるような防御施設ではない。

上から狙い撃ちされやすいため、通常は、城兵の10倍の兵力でも犠牲者が多く出てしまう。

実際に小田原征における【山中城の戦い】では、曲輪を奪う同じような状況で、秀吉側の一柳直末という大名格の将が、城側の鉄砲に当たり戦死している。

さほどに犠牲がでやすい攻城戦なのである。

それを、ほぼ無傷で駆け上がったとするならば、ここでも城兵の士気の低下と、事前の調略が行き届いていたと考えるのが妥当であろう。

それにしても漫画『センゴク』に出てくる山城の描写は見事としか言いようがない。

多少の誇張はあるにせよ、時代考証が素晴らしく、間違っても白亜の天守閣や総石垣の曲輪なんて描かれない。

おそらくや全国の城マニアたちをワクワクさせたであろう。

普通、山城は、草木などない土剥き出しの裸状態だ。

現代では、草深い山に埋もれている印象であるが、小谷城も現役のときは、城内に草木は殆んど生えておらず裸の山だった。

なぜなら草木は、攻め手の将兵が隠れるための障害物になってしまうからである。

石垣も主要な部分だけで、他は土を固めて土塁を構築したり堀をタテやヨコに切っているだけ。

これぞ戦国時代の城!

そうした雰囲気が『センゴク』では、非常によく描かれている。

 

枡形虎口が普及していくのは安土城や聚楽第

漫画『センゴク』においては小谷城の大手門と竪堀を突破した権兵衛たち。

ラストの攻略ポイントは難関「京極丸」の虎口だった。

作中での虎口は枡形虎口(ますがたこぐち)、しかも内枡形の設定になっていた。

「なぜ虎口が城の防御に使われているのか?」

その詳細については後述するとして……。

当時の小谷城に枡形虎口が設置されていたかどうか?

真実のところはわからない。

虎口は、たしかに大昔から城や館の防御施設に使われていた。

しかし、枡形虎口が普及していくのは「安土城」や「聚楽第」など、いわゆる織豊系の城郭になってからだと言われている。

信長・秀吉期できたといわれている防御施設「枡形虎口(外枡形)」/photo by うぃき野郎 wikipediaより引用

ゆえに織豊の敵となった小谷城に、そうした施設があったかどうか。

現在、小谷城趾の京極丸に登城すると、京極丸の絵図に枡形虎口が描かれている。

遺構も確かに確認できるのだが、これが浅井長政が城主の時代に造られたかどうかは実は誰にも分からない。

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というのも、鉄壁の防御を誇る枡形虎口は、通常、本丸や京極丸にすべきである。

それなのに京極丸の中心から少々外れた「武者溜まり」のような場所に設置されているのだ。

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