御家のために命を張ってこそ価値がある――。
なんて言ったら、ガハハハハと笑われるのが戦国時代。
現代の外資系企業のように能力一本・腕一本で大名家を渡り歩くことは、悪いどころか正当な生きる道でありました。
ただ、それでもこのセリフはやっぱり強烈ではないでしょうか。
「七度主君を変えねば武士とは言えぬ!」
豊臣や徳川で重用され、寛永7年(1630年)10月5日に亡くなられた戦国武将・藤堂高虎の言葉です。
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藤堂高虎8名の主君とは?
藤堂高虎は本当に7回も主君を変えたの?
実際のところ嘘だよね?
そう思われる方のため、最初に高虎の主君を数えておきましょう。
①浅井長政
↓
②阿閉政家(あつじまさいえ)
↓
③磯野員昌(いそのかずまさ)
↓
④織田信澄(つだのぶずみ)
↓
⑤豊臣秀長
↓
⑥豊臣秀保(ひでやす)
↓
⑦豊臣秀吉
↓
⑧徳川家康(以降、秀忠→家光と続く)
最初の浅井長政から数えて計8人、きっちり7回変えていますね(親子の代替わりなどによって数え方は変わりますが)。
ただし、闇雲に「こんなところで働けんわ!」と転職を繰り返すムチャクチャな人物だったわけではなく、豊臣秀長のときは秀長が亡くなるまで長く仕え、さらにその養子・豊臣秀保が横死したときには責任を感じて高野山に入っているほどです。
忠誠心がうんたらかんたらの話ではない。
そもそも「一つの家に生涯尽くさねばならない」というのは、江戸時代からの話。
いつどこで誰が死ぬかわからない戦国時代においては、すぐに自分の能力を評価し、高い禄(給料)で召し抱えてくれる主人を探すほうが重要なのです。
高虎のように、そういう生き方を好んだ武将を「渡り奉公人」と呼びます。
高虎は、その中でも軍を抜いて成功した人物です。
一体どんな人物だったのか?
その誕生から見て参りましょう。
渡り歩いて秀吉弟・秀長のもとへ
藤堂高虎は弘治2年(1556年)に生まれました。
父は近江の地侍・藤堂虎高で、母は多賀良氏の女とら(妙青夫人)。
父の虎高もまた、若い頃は渡り奉公人だったようです。かの上杉謙信に仕えていたこともあったとか。
彼の人となりについては記録が乏しく、あまり詳しいことはわかりません。
成長してからの高虎や、その息子・高次がかなり恵まれた体躯の持ち主だったことからすると、虎高も平均以上の体格だった可能性がありますね。
高虎が最初に仕えたのは、地元近江の大名で、織田信長の義弟だった浅井長政です。
この頃の藤堂家は一応武士ではあったものの、ほとんど農民と同じような状態だったそうなので、一兵卒から成り上がっていったのですね。
初陣は、織田徳川連合軍と浅井朝倉連合軍がぶつかった【姉川の戦い(1570年)】でした。
このとき15歳。
しかし若気の至りで刃傷事件を起こしてしまい、長政の下を離れることになります。
それから、阿閉政家や磯野員昌など浅井家臣の家を渡り歩きました。
そして浅井氏が滅びると、今度は信長の甥っ子・津田信澄(つだのぶずみ)のもとへ。
当時の織田家のうなぎ登りっぷりからすると、なかなか良い就職先に見えます。
……が、ここもウマが合わなかったらしく、天正九年(1576年)になってやっと、羽柴秀吉の弟・秀長のところに腰を落ち着けることになりました。
と、これが大正解。
なぜかというと、この後に津田信澄は、とんだ貧乏くじを引かされるからです。
彼は、信長を排除しようとして逆に殺された【弟・織田信勝(信行)の息子】という血縁だけでなく、あの【明智光秀の婿】でもありました。
そのため、本能寺の変後はその去就を疑われて、織田信孝(信長の三男)と丹羽長秀に殺されてしまったのです。
もし高虎が、その場にいたら……かなり歴史が変わっていたかもしれませんね。
秀長の家臣として各戦場で大活躍!
豊臣秀長の下についたのは、別の意味でも大正解でした。
豊臣秀吉の弟として知られ、政治や戦だけでなく、個々の武将や吏僚たちの調整などを一手に引き受けていた秀長。
人が好いだけでなく豊臣軍団を束ねる中心的存在でもあり、その仕事は多岐に渡ります。
つまり、数え切れないほど活躍の場が用意されていたのです。
彼等の戦歴をざっと見てみますと
また、秀長が関わったと思われるさまざまな築城の現場で、技術を身につけていったと考えられます。
これは、高虎が学問的に築城を学んだという形跡がうかがえないためです。
秀長が紀伊を与えられた後、高虎は築城等に向けて材木を集める仕事を任されていたことがありました。少なくともそのあたりから、普請に関するさまざまな実務に携わっていたでしょう。
主君である秀長も、高虎を重用し、気前よく名馬を与えたり加増もしました。
天正15年(1587年)には、紀州粉河城2万石の城主になっています。
高虎は、ここでやっと「この方こそ!」と思えたでしょう。
彼が主家を重んじる体制でいたことは、とあるエピソードに現れています。
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