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【藤堂高虎】
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浮いてしまった仙丸を養子に迎えた
実は高虎の主人・豊臣秀長には、仙丸という養子がいました。
血縁的には、丹羽長秀の三男です。
本能寺の変の後、旧信長家臣団が柴田勝家につくか・羽柴秀吉につくかで割れていた頃に、長秀を懐柔する作の一つとして迎えた人でした。
しかし、天正十九年(1591年)に「秀長の跡を継ぐのは甥の豊臣秀保(秀次の弟)」と決まりました。
既に秀長が病身となっていたこと、秀長の娘・おみやとの結婚が条件だったことなどが理由と思われます。
年頃としては、仙丸のほうがおみやと釣り合うのですが……。
もしも仙丸を通して丹羽氏が羽柴氏に食い込んでくるようなことになっては、後々不都合が生じるおそれがあります。
秀吉と秀長は、その点を危惧したのでしょう。
こうして、仙丸の存在は浮いてしまいました。
実家に戻ろうとしても、長秀は天正十三年(1585年)に亡くなってしまっていますし、跡を継いだ異母兄の丹羽長重とは、おそらく面識がありません。
なにせ、この時点でも仙丸はたった9歳。秀長のもとへ来たのは4歳のときのことでしたから、本人としてはどうなるのか不安で仕方なかったと思われます。
高虎はここで、自ら「仙丸様を養子にお迎えしたいのですが」と申し出ました。
高虎にもこの時点では息子がいなかったため、これでどの方面も丸く収まりました。
秀保の死を悼み高野山で出家
少々時系列が前後しますが、仙丸は成長後「藤堂高吉」を名乗り、朝鮮の役や伏見城普請などで活躍しています。
……が、しばらく後になって高虎に実子・藤堂高次が生まれたため、高吉は分家扱いとなってしまいます。
なんとも運のないお方です。
とはいえ、仙丸や秀保には責任のないことです。
高虎は秀保にも忠実に仕え、秀長が亡くなった後は後見役として支えました。
朝鮮の役では高虎が渡海し、秀保は名護屋にとどまっています。
しかしその数年後、文禄4年(1595年)に秀保は17歳の若さで急死してしまいました。
秀保の死の真相は不明です。
秀吉は彼の死を悼むどころか、葬儀を密葬で済ませたともいわれており、怪しさ満点。
同年7月には、秀保の実兄・秀次が切腹していることもあり、
「秀保は秀次と共に、秀吉に謀反を起こそうとしている」
と疑われて殺された……なんて説もありますが、はてさて。
若い頃からほうぼうを渡り歩き、やっと落ち着いた先で秀長・秀保という二人の主人を失った高虎が、意気消沈するのも無理のない話です。
高野山に上って出家してしまいました。
秀吉の強引に呼び戻され宇和島入り
そんなところで横槍を入れたのが、ボケが始まったとされる太閤・豊臣秀吉。
「お前みたいな優秀なヤツが坊主になるなんて認めない! 宇和島に領地をやるから帰って来い!!」として半ば強引に復帰させられてしまいます。
このあたりの領主だった戸田勝隆という大名が朝鮮の役からの帰路で病死していたため、代役として選ばれたのです。
勝隆は、古くから秀吉に仕えてきた人でしたが、大名としての経験が浅く、地元民の心をつかむことができずにいました。
特に豊臣政権が行った検地については、どこの地方でも大不評であり、それを勝隆は何の交換条件も出さず強行してしまったため、大規模な一揆を起こされています。
高虎はそうした不信感漂う地域を、うまく治めていかなくてはなりませんでした。
農民が検地を嫌がるのは、平たく言えば収入が減るからです。
中世までの日本において、地方の政治は一言で言えば”テキトー”。
どこにどのくらいの広さの田畑があって、どの程度の収穫が見込めるか?など、中央政府は把握していませんでした。
農民たちはそれを逆手に取って、親から子へ、子から孫へと開墾を進め、密かに収入を増やしていたのです。
検地をされてしまえば、そうやって先祖代々努力してきたことがバレ、以前より多くの税を取られてしまいます。
ただでさえ天災や流行り病、戦の巻き添え等々で、いつ誰が死ぬかわからない時代。
生きている間に少しでも豊かな暮らしをしたいと思うのは当然のことです。
高虎は自分も流浪してきたことがあるだけに、農民のそうした感情を理解していたと思われます。
そこで、高虎は一つ条件を出しました。
領内の農民に対し「開墾を奨励する代わりに、一年間は税を取らない」と告げたのです。
こうしたやり方を”鍬下年季”といい、大名が農民を懐柔する策としてよく用いられました。
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