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【藤堂高虎】
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関ヶ原では大谷軍と相対
高虎は、他にも領内の神社を修繕したり、米を収めることによって、地域に溶け込もうと努力しています。
数年間こうして地元民の感情は徐々に軟化させたことにより、検地もスムーズに行うことができました。
とはいえ、難しい仕事を押し付けられたという点は変わりません。
しかもこれは、朝鮮の役と同時進行でやっています。高虎のような器量人でも、相当にストレスがかかったことでしょう。
それだけが理由というわけではない……と思われますが、高虎は秀吉が亡くなる直前から、徳川家康に接近します。
家康が慶長五年(1600年)の上杉征伐に出陣したときも従っていますし、関ヶ原の戦いでも東軍でした。
関ヶ原当日は、最前線の大谷吉継隊と相対しています。
同時に、豊臣恩顧の大名のうち、
・脇坂安治
・赤座直保
・朽木元綱
・小川祐忠
たちに調略を仕掛け、合戦当日に寝返らせ、大谷隊へ攻撃させたのも高虎でした。
従来は「小早川秀秋が裏切って大谷隊を攻撃したため、東軍が勝った」とされていましたが、近年では「高虎の調略を受けた四人の隊が裏切ったから」という見方が強まっています。
高虎が大名に復帰せず、この場にいなかったら……なんて、”もしも”を考えてしまいますね。
ちなみに、大谷隊と藤堂隊に関するエピソードもあります。
吉継の代わりに五助の首を取る
大谷吉継は病(ハンセン病と推測されています)によって顔が崩れ、それを恥じていたといいます。
現代の大谷吉継像は「頭巾で顔を隠していた」イメージがありますが、これは江戸時代の説話で付け足された描写のようです。
ただし眼を病んでいたのは確実だったようですので、眼の異常を他人に晒したくなかった……という可能性はありますね。
それはともかく、武将であれば、より立派な武将以外には首を取られたくないものです。
しかしこのときの大谷隊は、裏切り者達に攻撃されている状態。
自分の首を裏切り者の踏み台にされるくらいなら、人知れず腹を切るほうがまだマシです。
吉継は数少ない家臣を連れ、山中でひっそりと腹を切り、その首を隠すよう言い残しました。
これに応じたのが、吉継の側近だった湯浅五助という人物です。
しかし、五助が吉継の首を隠したちょうどその時、高虎の家臣である藤堂高刑(たかのり)に見つかってしまいました。
高刑は高虎の甥で、当時24歳の若者。
五助は吉継の側近として知られていたため、願ってもない機会でした。
とはいえ藤堂の血が為せる技か、高刑は五助が何かを隠していたことに気づきます。
「何を隠したのか?」
そう尋ねると、五助は答えました。
「私の主人の首をここに埋めたのだ。私の首を渡す代わりに、このことを黙っていてくれないか」
自分の命と引き換えに主人の名誉を守る、という忠臣ぶりに高刑は感銘し、その約束を守ることを誓って、五助の首を持って帰りました。
当然、甥が武功を上げたことを高虎は大いに喜びました。
二人で家康の本陣に報告すると、家康は手柄を褒めた後、案の定、こう尋ねられます。
「五助ほどの者ならば、吉継の居場所か首のありかを知っているはず。討つ前に聞かなかったのか?」
難しい質問ですよね。
もし「尋ねなかった(その前に首をとってしまった)」と答えれば、粗忽者(うっかり者)・不心得者として功績が帳消しになるどころか、藤堂家への風当たりが強まったでしょう。
そこで高刑は、真正面からこう言い切ります。
「聞きましたが、言わないと約束する代わりに五助の首を貰い受けたので言えません。お気に召さないのなら、どうぞ私をご処分ください」
この高刑の律儀さに徳川家康は感心し、槍と刀を与えてこの件を不問にします。
まあ、家康からすれば「吉継が死んだかどうか」が重要ですからね。
もしも吉継の首を挙げていれば、そのぶんの褒賞もやらなければなりませんから、出費が浮いてラッキーぐらいに思ったかもしれません。
渡辺了との確執 ついには奉公構を出す
関ヶ原の戦いで家康が勝ち、平和な時代が徐々に訪れるようになると、高虎も徳川家に仕え続け、働き続けました。
2つほど例を挙げましょう。
◆宇和島(愛媛県宇和島市)に、海水を引き入れ五角形の堀を巡らせた「宇和島城」を築城
◆大坂夏の陣で大損害を受けながらも敢闘
ただし、後者については身内での確執も……。
当時の高虎の家臣に、渡辺了(さとる)という人がいます。
彼は若いころ高虎同様に渡り奉公人をしており、関が原までは西軍・増田長盛に仕えていました。
西軍が敗れた後は、長盛の居城・大和郡山城を東軍方に引き渡しています。
そのときの指揮ぶりが見事だったため、受け取りにきた高虎が惚れ込み、二万石で召し抱えたほどの人です。
しかしその了が、大坂夏の陣で高虎と仲違いすることになったのです。
理由は他愛のないもの。
徳川家の譜代たちを無視するような形を取ってまで、大坂城へ突撃してしまったのです。
家康や秀忠の心象を悪くする可能性や、他の大名からの心証を損ねることを避けるなら、ここは譜代たちに譲るべきところでした。
しかも、藤堂軍の被害もかなり出てしまっています。
確かに高虎は家康から信頼を得ていましたが、大坂夏の陣の時点では、まだ油断は禁物といったところ。
そういうデリケートな情勢の中で、主人の立場が危うくなるようなことをしたのですから、了への印象が悪くなるのは当然のことです。
この働き自体は家康に認められ、高虎は従四位下への昇進と五万石の加増を受けていますが……高虎にとって了の振る舞いは許しがたいことでした。
了も了で意地を張り続け、結局藤堂家から出奔。
しかも出ていった当日は、鉄砲の火縄に点火した状態だったというのですから、完全にケンカを売っています。
これにはさすがの高虎も腹に据えかね、了に対し【奉公構(ほうこうがまえ)】という扱いをしました。
奉公構とは、自分のもとを去った家臣について、他の大名に「あいつは不心得者なので、雇わないでください」と知らせて回ることです。
現代でいえば、辞めた社員が再就職できないように、他社へ根回しするというような感じでしょうか。
ここだけ聞くとひどい話のようにも見えますが、よほどまずいことをしないと奉公構にはならないので、世間的には受け入れられていたようです。
有名な例では、水野忠重が息子・水野勝成を、黒田長政が後藤基次(後藤又兵衛)を、細川忠興が稲富祐直をそれぞれ奉公構にしています。
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