天正20年(1592年)7月22日は、大政所の命日です。
「おおまんどころ」と読み、豊臣秀吉の母・なかと言った方がわかりやすいかもしれませんね。
2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟』が放送されれば、主人公が豊臣秀長(秀吉の弟)ということで、かなりの注目度となるでしょう。
まさしく日本史上最も出世した男の母親は、一体どんな女性だったのか。
21日に亡くなったという説もありますが、今回は22日として、その生涯を振り返ってみましょう。
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秀吉を産んだ後に再婚していた大政所(なか)
なかは、尾張国愛知郡御器所村(ごきそむら)、現在の名古屋市昭和区に生まれたといわれています。
身分が低かったので家族関係などもはっきりしていませんが、妹もしくは従妹が加藤清正の母とされています。
豊臣政権で清正が重宝されたのもわかりますよね。
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最初は織田家の兵だった木下弥右衛門のもとに嫁ぎ、日秀尼(秀次の母)と秀吉を産みました。
この弥右衛門と死別した後は、やはり織田家に仕えていた竹阿弥と再婚したといわれているのですが、秀吉の弟にあたる豊臣秀長と妹・朝日姫がどちらの夫の子供かハッキリしていません。
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竹阿弥とも死別した頃には秀吉が織田家に仕え始めており、息子を頼るようになります。
秀吉正妻・ねねとも実の親子のように仲が良かったそうです。
秀吉とねねは、ずっと尾張弁で話していたそうですから、なかとねねもそうだったかもしれませんね。
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本能寺の事件直後は長浜城から大吉寺へ
本能寺の変後、長浜城が明智方の手に落ちた時は、大吉寺というお寺に逃れています。
大吉寺は源頼朝が【平治の乱】後、一時匿われたという伝説のある古いお寺。天下人やその家族に縁があるんですかね。
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一時はかなり大規模なお寺だったようですが、何らかの理由で織田信長に破却され、当時はかなり寂れてしまっていました。
だからこそ逃げこむには適していると考えたのかもしれません。
ちなみに、長浜城から大吉寺までは現代の道路で16~18km前後あります。
よくこの距離を女性の足で逃げられたものです。
なかもねねも足腰強かったんでしょうか。あるいは馬で逃げた?
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家康を上洛させるため人質に出され
その後、秀吉が大坂城を築くと、なかとねねもそちらへ移りました。
秀吉の関白就任と同時に、なかは大政所の号と女性の一番高い位【従一位】を与えられています。
なかにしてみれば、息子が立派になって親孝行をしてくれることは嬉しいにしても、ちょっと仰々しく思ったかもしれませんね。
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彼女は、大和郡山城の秀長を訪ねたり、寺社に参詣したり、割とアクティブに過ごしていたようですが、その合間に体調を崩すことも珍しくなかったようです。
長期間寝込んだという記録はないので、病気がちというよりは、あまり体力がなくて疲れやすい・風邪をひきやすいタイプだったのかもしれません。
それでも秀吉は【小牧・長久手の戦い】の後、徳川家康を懐柔するため妹の朝日姫を嫁がせ、なかも一緒に送り込んでいます。
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関白の母と妹を人質に出されては、家康もモタモタできなくなる――そう考えてのことでした。
家康は苦々しく思いながらやっと上洛したようですが……。
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