天武天皇元年(672年)7月23日、壬申の乱に敗れた大友皇子が縊死(いし・首吊り死)を選びました。
歴史の授業でも取り上げられることが多いながら、実は謎多き壬申の乱。
途中で即位する人がいたり、追号を送られて名前が変わったりする人がいてややこしいため、今回は理解を重要視して最初の呼び名で統一しますね。
まずは天智天皇から天武天皇への変遷をざっくりと追ってみましょう。
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まずは10行で壬申の乱
まずは10行で当時の流れをまとめてみますね。
天智天皇(大化の改新をやった中大兄皇子の即位後)が弟の大海人皇子を皇太子にしようとする
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途中で気が変わって、息子の大友皇子を皇太子にするかどうか迷う
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大海人皇子が「直系の皇子に継がせるのが筋なので、私は出家します」と頭を丸める
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天智天皇、息子の大友皇子を正式に皇太子へ
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天智天皇が亡くなり、大友皇子が弘文天皇として即位(してないかも)
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大海人皇子がなぜか反乱
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【壬申の乱】勃発
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大海人皇子側が連戦連勝
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大友皇子が首を吊り、大海人皇子が勝利←今日ここ
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大海人皇子が天武天皇として即位
だいたいこんな感じです。
ただし『日本書紀』の話であって、いくらか事実がねじまg……省略されている可能性もあるようです。
これでは一度頭を丸めた大海人皇子が反乱を起こした理由がサッパリわかりませんし、記録にするとマズイ事情があったのかもしれません。
一応「これでは?」といわれている説はいくつかあります。
血筋から言えば大海人皇子に軍配があり……
ひとつは、皇位継承順が絡んでいるというものです。
大海人皇子は天智天皇の同母弟なので、父親も母親も天皇(舒明天皇&皇極天皇)。
いわば日本における最高の血筋ですね。
一方、大友皇子の母親は天智天皇の女官だったといわれていて、同じ「皇子」でも大幅に身分が異なります。
このため、当人たちはともかく、周囲の豪族たちからすれば「より身分の高い方が皇位に就いて当然だろjk」という感じだったとしてもおかしくはありません。
結果、大海人皇子派と大友皇子派に分かれ、戦乱になった……という説です。
もうひとつは「天智天皇が改革的な政治をしたため、それについていけない豪族との不和が生まれ、それが世代を超えて引き継がれた」というものです。
皇極天皇の時代(正確には重祚した後なので斉明天皇)に、日本は朝鮮半島の国・百済復興のため兵を出したことがありました。
そして白村江で大敗北してしまうと、天智天皇は百済の人々を日本に移住させています。
そのためには新しい家その他諸々を用意してやらなければならず、その負担が豪族や一般庶民にのしかかり、天智天皇に不満を抱く勢力となって大海人皇子を即位させようとしたのでは?……という話です。
まぁ、これもありそうな話ですよね。
ちなみに「女性がらみでは?」なんて説もあります。
もしかしたらこっちのほうが有名でしょうか。
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