ナポレオン2世

ナポレオン2世/wikipediaより引用

フランス

ナポレオン2世の帝位はわずか2週間~親族に振り回されたフランソワの不遇すぎる生涯

1832年7月22日は、ナポレオン2世ことナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフ・ボナパルトの命日です。

かのナポレオン1世の息子ですが、21歳の若さ亡くなっています。

いったい彼に何が起きていたのか?

どんな生涯を辿ったのか?

ナポレオンというとやはりお父さんのほうが有名ですので、本記事では”フランソワ”で統一して進めてまいりましょう。

ナポレオン2世/wikipediaより引用

 


2人目の妻との間に生まれた息子

父ナポレオンが一気に登りつめて捕まって脱獄し、再び負けてセントヘレナ島で亡くなった(超略)ため、フランソワの存在はほとんど知られていません。

一応、帝位を継いで”2世”になってはいますが、彼の人生は、ほとんど母の実家ハプスブルク家の中でのことでした。

フランソワは、ナポレオンの二人目の妻マリー・ルイーズとの子供だったのです。

生まれてすぐ、フランスの支配下になっていたローマの王様に任じられたフランソワ。

もちろん名目上のことですが、ナポレオンがどれだけ男児の誕生を期待していたか?がわりますね。

しかし、その誕生翌年にナポレオンはロシア遠征で大失敗し、他の国から「今までの分を返してやんよ!」とばかりに対フランス同盟が組まれ、包囲網を敷かれてしまいました。

そしてナポレオンが同盟軍側に敗れてフランス皇帝から退位すると、フランソワもそのままでは済まされません。

ナポレオンの兄弟たちはフランスから追放されていたため、父方の親戚を頼ることはできず。

マリー・ルイーズとしては、息子と一緒にナポレオンが流されたエルバ島に行きたかったようですが、そもそも彼女の父であるオーストリア皇帝フランツ1世としては、娘を嫁がせたのも一時的な政略に過ぎない。

もはや、罪人として軟禁されている成り上がり者のもとへ行かせるなど、言語道断でした。

そこでフランソワは母と共にオーストリアで落ち着くことになります。

ここからがあまり気分の良くない話で、フランツ1世がアダム・アルベルト・フォン・ナイペルク伯爵という貴族にマリーを口説かせ、エルバ島に行きたくなくなるよう仕向けたといいます。

そんな強引な手段が取られたのは、フランツ1世がパルマ公国をマリーに治めさせたいと考えていたことも理由でした。

パルマ公国とはイタリア北部にあった国で、ナポレオンがイタリアを攻略した際にフランスへ併合されていたところ。そのナポレオンが失脚したため、新たな統治者が必要になっていたのです。

イタリアへの影響力を保ちたいフランツ1世が、娘を送り込むには絶好の土地だったのでした。

そしてマリーはナイペルク伯爵にすっかり惚れ込んでしまい、エルバ島に行くことなくパルマへ向かいました。しかも息子のフランソワを置き去りにして……。

オーストリア側の言い分としては

「ナポレオンとマリー・ルイーズの結婚はローマ教皇の許可を得ていないから無効であり、フランソワは私生児である」

という点もありました。

これにショックを受けたマリーが、その後フランソワにあまり会いたがらなかった理由のひとつかと思われます。

いずれにせよ、当時4歳のフランソワには何の責任もありません。

不遇な有名人の子供というと、ルイ17世を思い起こさせますが、まだフランソワのほうがマシな境遇でしょうか。

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たった2週間の帝位

「息子をドイツの王子として教育したい」

そう考えたマリーは父帝フランツ1世に訴えて、その結果、フランソワはオーストリア宮廷で十分な教育を受けられるようになりました。

フランツ1世としても憎い敵の息子、だけど可愛い娘の子供でもある……ということで、ドイツ式教育を徹底。

この場合の「ドイツ」は「ドイツ語圏」とほぼ同じ意味で、オーストリアも含まれます。ややこしいですね。

フランソワに関しては「父方のイタリア風でもなく、父が君臨していたフランス風でもない教育をして、父親の痕跡を消す」というのが主眼だったと思われます。

結果、フランスからついてきていた側付きの人々は解雇され、代わりにドイツ人のディートリヒシュタイン伯爵が教育係になりました。

1815年のことです。この年、父ナポレオンはエルバ島を脱出しながら【ワーテルローの戦い】で敗北し、改めて皇帝から退位させられています。

退位の条件として「息子への譲位」が含まれていたため、フランソワは全く知らないうちにフランス皇帝の座を譲られていたことになります。

これも、もちろん名目上のこと。

フランスではすぐに王政復古期に入り、フランソワの帝位が否定されたため、書類上で2週間だけ。

フランツ1世としては、フランソワを取り込むため、彼が幼いうちにボヘミアやプファルツなどの領地を与え、生活が成り立つようにはしていました。

しかし、ドイツ風の爵位「ライヒシュタット公」も与え、帝位などさらさら認めるつもりはありません。

フランソワにとってはもうひとつ不幸なことに、母マリー・ルイーズが彼にあまり関心を持ちませんでした。

ナイペルク伯爵にすっかり惚れ込んでしまい、彼との間に子供も産んでいたからでしょうか。

フランソワとの面会の約束を破るわ、急かされても2年も待たせるわ。

とても実の親子とは思えない冷遇振りでした。

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