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【秀吉の母・大政所(なか)】
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「殿に何かしたらお前の母親を焼き殺してやる」
その間、岡崎では徳川重臣・本多重次(通称”鬼作左”)が、なかの滞在する館の周りに火を放つ用意を整えられていたとか。
「ウチの殿に何かしやがったら、お前の母親を焼き殺してやる」というわけです。
あらかじめこれを秀吉に伝わるようにしておかないと、意味がない気がするんですけどね……。はっきり言うのは問題ですが、それとなくを装って噂を流すことくらいはできるわけですし。
それに、家康がもし殺された後で岡崎衆が反乱を起こしたとしても、周りの大名に潰されるだけの予感。
重次はこの他にも短気すぎるエピソードがいくつも伝わっているので、後のことを考えていなかった可能性が大かもしれません。
これに関する秀吉の反応については二つの話が伝わっています。
「激怒して家康に”重次を追い出せ!”と命じた」
「”家康殿はさすがに良い家臣をお持ちだ”と笑って許した」
事が事ですし、秀吉の性格からしてどちらもありえそうな気がします。実際はどっちだったんでしょう。
「私が生きているうちに、墓の支度をしてほしい」
そんなこんなで約一ヶ月程度の緊張の後、なかは無事に大坂城へ戻りました。
その後、一時は聚楽第に住んだこともありましたが、大坂城のほうが落ち着くのか、すぐに戻っています。京より大坂の雰囲気が好きだったのかもしれません。
天正十八年(1590年)あたりからは、加齢のためと思われる体調不良や、朝日姫や豊臣秀長に先立たれるなど、不運が続きます。
なかは永正十三年(1516年)生まれとされているので、当時としてはそろそろ……という頃合い。
本人もそれを自覚していたらしく、「私が生きているうちに、墓の支度をしてほしい」と秀吉に頼んでいます。
秀吉はさっそく母のために土地を探し、お寺の建立を始めさせましたが、落成した頃のなかは元気になっていたそうです。
心配事がなくなって安心したんですかね。
しかし、秀吉がここで朝鮮出兵を決めてしまい、再びカーチャンの心身に負担をかけます。
秀吉は当初、渡海する気満々でしたが、「せめて大陸に渡るなんて危ないことはしないでおくれ」と懇願する老母に逆らえなかったことも、渡海を取りやめた一因だったといわれています。
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その場で卒倒するほどの衝撃を受けた!?
しかし、なかの命は確実に尽きるほうへ向かっていました。
朝鮮出兵の前線基地である名護屋に秀吉がいる間、京を預かっていたの豊臣秀次。
秀吉に心配をかけまいと、なかの病状をギリギリまで知らせなかったとされておりますが、さすがに寿命には逆らえません。
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それまでは、なかが体調を崩しても、祈祷をすれば早く治ったのに、このときはその兆しが一向にみられませんでした。
『いよいよか……』と考えた秀次は、急いで秀吉になかの危篤を知らせます。
秀吉は仰天し、大急ぎで名護屋を出立しましたが、なかはその日に亡くなってしまっていました。
大坂に到着してから母の死を聞かされた秀吉は、その場で卒倒するほどの衝撃を受けたといいます。
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秀吉は誰に何を言われても唐入りを諦めませんでしたが、母の死に目に会えなかったことを後悔した分、意固地になっていたのかもしれません。
唐入りの成功を、なかへの手土産、あるいは供養にでもするつもりだったのでしょうか。
なかの年齢からして秀吉より長生きする可能性は極めて低いにしても、朝鮮出兵をしなければ、ほぼ確実に看取ることができたでしょう。
もしかすると、なかの命日は秀吉が生涯で一番後悔した日なのかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
堀新・井上泰至『秀吉の虚像と実像』(→amazon)
歴史読本編集部『物語 戦国を生きた女101人 (新人物文庫)』(→amazon)
大政所/wikipedia