こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【真柄直隆】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
今度は徳川の匂坂三兄弟と死闘
周囲の様子から敗勢を悟った直隆は、忠勝との決着を諦め、自ら殿(しんがり)を買って出ました。
殿とは、撤退する軍の最後尾で支えること。
危険かつ手練でなければ難しいとされる戦いです。
その途中、直隆は、徳川家の匂坂(さきさか)三兄弟とも再度死闘を演じたといわれています。
怪力ももちろんですが、スタミナがすごいですね。
※『明智軍記』では「身長196cm・体重252kg」という記述(ただし書物そのものの信ぴょう性が低いです)
とはいえ、やはり直隆も人間。
しばらくした後に疲れ果て、「今はこれまで、我が首を手柄にせよ」と自ら太郎太刀を投げ捨てると、匂坂三兄弟に首を差し出したといいます。
これまた潔いといいますか。
実に戦国武将らしい価値観ですね。
『信長公記』では他にも真柄直元や遠藤直経など、討ち取った複数の武将名を挙げ、さらには織田・徳川軍全体で取った首は1,100にのぼったとか。
浅井の重臣・磯野員昌を攻略だ
勢いに乗った織田・徳川軍は小谷城まで5.5kmほどのところまで追撃しました。
しかし、小谷城そのものは一朝一夕には落とせない堅城のため、追撃をいったん中止。
近隣の横山城(長浜市)を攻略して、城番に木下藤吉郎(豊臣秀吉)を入れます。
そして7月1日。
今度は佐和山城(彦根市)に籠もっていた浅井方の武将・磯野員昌(いそのかずまさ)を攻めました。
近江を代表する戦国武将・磯野員昌~織田家vs浅井家の行方を左右する勇将だった
続きを見る
ここも容易には落ちませんでした。
しかし、鹿垣(ししがき・獣に対する垣・囲いのこと)を設置するなどして包囲を続けた結果、翌元亀二年(1571年)2月に降伏させます。
こちらは丹羽長秀が城番を務めることになっていますので、包囲中の責任者も彼だったのでしょう。
磯野員昌は、姉川の戦いで、信長本陣めがけて「姉川十一段崩し」という猛攻をしたといわれる勇将です。
何か?というと、信長本陣の前に構えていた十三段の備えのうち十一段まで崩した――というものですね。
織田軍にとっては、首の皮一枚で繋がっているような状態に感じられたでしょう。
このときは美濃三人衆が信長救援に動き、さらには「徳川軍が織田軍側に進んできている」という知らせが入り、浅井軍も撤退しております。
前述、本多忠勝と真柄直隆の一騎打ちを止めさせた、タイミングですね。
徳川軍が側面攻撃に成功して、朝倉軍を後退させていたのです。
ルートを確保すると早速京都へ
しかし、この磯野員昌の「十一段崩し」は、江戸時代の書物が初出なので、やはり創作の可能性は否めません。
員昌自身の武勇を誇張するためか。
あるいは家康やその家臣団の優秀さを強調するためか。
いずれかの狙いが含まれていそうですが、全く根拠のないものから創作するのも難しいですし、員昌が勇猛であったことは事実と見ても良さそうです。
こうして、岐阜と京都を行き来するルートはほぼ万全になった織田軍。
7月6日に信長は、御馬廻衆だけを連れて上洛し、将軍・足利義昭に状況を報告しています。
その後、上方での政務を片付け、7月8日に岐阜へ帰還しました。
信長の処理速度はいつも半端ないですが、それについていく御馬廻衆もなかなかのフットワークですね。
大勝を収めたものの、浅井・朝倉両氏との戦いはまだまだ続きます。
それ以外の大敵も迫っておりました。
あわせて読みたい関連記事
織田徳川vs浅井朝倉「姉川の戦い」で一体何が変わったのか?合戦前後も併せて考察
続きを見る
信長が絶体絶命の窮地に陥った「金ヶ崎の退き口」無事に帰還できたのはなぜ?
続きを見る
本多忠勝5つの最強武将エピソード!家康を天下人にした生涯63年とは
続きを見る
徳川四天王・榊原康政は秀吉に10万石の賞金首とされた?家康と歩んだ生涯59年
続きを見る
近江を代表する戦国武将・磯野員昌~織田家vs浅井家の行方を左右する勇将だった
続きを見る
信長公記をはじめから読みたい方は以下のリンク先へ。
◆信長公記
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)