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【和菓子の歴史】
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秀吉と「お茶菓子」は最高の文化
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もしも長生きしていたら、その後、どんな菓子をふるまったのか、新しくどんな菓子が作られたのか。興味はつきないところですが、それを知ることはできません。
代わって天下人となったのが、豊臣秀吉です。
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この時代に流行した文化といえば、何と言っても「茶の湯」です。
最高の茶人が、最高の茶器と茶室で、最高の菓子を添えていただく――。
茶の湯は、まさに最高の文化でした。
また茶道の持つ美的センスにあわせて、ただやたらと甘いだけではなく、形も凝った菓子が作られるようになります。
そんな秀吉の注文に応じて、菓子を作ったのが老舗の「虎屋(→link)」です。
虎屋さんの公式サイトの中には年表(→link)もあり、「室町時代後期 京都で創業する」と記されておりますね。
実に五百年もの歴史がある老舗。
その「虎屋」が御所御用(天皇の住まう御所等に商品を届ける商人)になったのは、後陽成天皇の頃からで、秀吉が天下統一したころと同時期でした。
天下人と天皇という二大顧客を持つ虎屋は、まさしく菓子屋の頂点に立つ存在です。
秀吉が主催する華々しいイベントである聚楽第への行幸等にも、虎屋の菓子が並びました。
イベント好きの秀吉が行ったものには、庶民が参加出来るものもありました。
「茶の湯に興味があるならば、身分を問わずに来るがよい」
そう呼びかけた「北野大茶会」です。
茶会に参加した中には、茶も菓子も口にするのが初めてという人もいたことでしょう。
彼らがどんな気持ちで、初めて味わう「甘い菓子」を口にしたのか。
想像するとなかなかロマンを感じますね。
家康と「嘉祥(かじょう)」
かように権力者の象徴でもある和菓子はその後どう発展していくのか。
皆さんご存知のように信長→秀吉の次に来る天下人は家康です。彼が江戸に幕府を開くと、その味も東へ東へと伝わっていきました。
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代表的な催しが「嘉祥(かじょう・嘉定とも)」でしょう。
江戸幕府では毎年6月16日、菓子を配る行事を行っておりました。
米一升六合が家臣に配られ、この米で菓子を買うと厄除けになるとされていたのです。
別の説によりますと、「武家が弓で的を射て、負けた側が勝った側に嘉定通宝16枚分の食べ物を贈る」というルーツもあるとか。
武家の間では「かづう」が「勝つ」に通じるとし、戦勝祈願のためにも同行事を尊んでいたのです。
これはもともと秀吉ら他の武家も祝っていた行事ですが、家康も幕府の成立前から行っており、後に「嘉祥頂戴」として大々的に催されるようになりました。
例えば元亀3年(1572)【三方ヶ原の戦い】直前、家康は勝利を祈願して「嘉定通宝」を拾い、家臣より献上された菓子を配ったと言われています。
まぁ、結果的に武田信玄に大敗してしまうんですけどね。
それでも「嘉祥とは、権現様(家康)にあやかったものである」として江戸時代に大々的に定着するのです。
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