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【近衛信尋】
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事件は家光上洛のときに起こった 酔った政宗が……
彼は公家の代表格ですから、多くの武家とも付き合いがありました。
その中に、東のネタ大名こと伊達政宗も含まれています。
伊達家は「ウチのご先祖様は藤原氏系」と称していますので、その辺がキッカケだったのかもしれません。
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そんなわけで、政宗は上洛した際、たびたび信尋の元を訪れており、長い付き合いがありました。和歌のやり取りをしていた手紙も残っています。
事件は、寛永十一年(1634年)、徳川家光上洛の際に起きました。
このとき、政宗は家光のお供として一緒に(正確には先行して)上洛していたのですが、信尋から「一緒に“能”を見ませんか」というお誘いが届いたのです。
政宗が亡くなる二年前でもあります。
こういう席ではお酒が出るものですが、「政宗+酒=やっかいごと」というのはもはやテンプレ。
なんとこのとき、政宗は信尋の烏帽子をいじくり回して「公家ほどぬるきものはない!」とのたまったとか。
上記の通り、信尋は血筋としても家格としても第一級の人物。ヘタをすれば、紫衣事件並の大騒動になってもおかしくはありません。
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しかし、この件は不問になっています。
信尋の賢明さを称えるべきか 老齢の政宗に
将軍が上洛中というデリケートな時期、しかも家光のお気に入りでもある政宗と事を構えるのは得策ではないという理性的な理由だったのでしょうか。
それともただ単に、日頃の付き合いからして「政宗殿はあのお歳だし、お酒が入るといつもアレだから仕方ない」と許したのか……気になりますね。
ちなみに信尋は、政宗の32歳下で、仙台藩の二代目・伊達忠宗と1歳しか変わりません。
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つまりこの話は、「政宗が息子同然、かつ身分が遙か上の信尋に、酒席での失態を勘弁してもらった」ということになってしまいます。
信尋の賢明さや心の広さを称えるべきか、政宗に「少しは自重してください><;」とツッコむべきか、判断に迷いますね。
政宗はこの年から嚥下(えんげ・えんか/食事を飲み込むこと)がしづらいと訴えていたそうなので、もしかすると気心知れた相手との宴で久しぶりに酒食を楽しみ、テンションが上がりすぎたのかもしれません。
信尋もそれをどこかから伝え聞いて、気を使ったのでしょうか。
いずれにせよ信尋がデキすぎていて、彼がまるで二次元の住人に見えることは間違いなさそうです。
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長月 七紀・記
小久ヒロ・絵
【参考】
国史大辞典
朝日新聞社『朝日 日本歴史人物事典』(→amazon)
近衛信尋/wikipedia
皇別摂家/wikipedia
近衛家/wikipedia