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【ザビエル】
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「男色イケマセーン! 地獄に落ちマース」
ザビエルは早速、薩摩で布教をはじめました。
が、仏教の僧侶からの激しい抵抗に遭うばかりか、貿易の旨味が少ないことを悟った島津貴久にも嫌われ、間もなく鹿児島を後にします。
次に向かった平戸では地元の大名・松浦隆信に布教の許可を得て、ここではボチボチ成功すると、別の者に任せて博多へ向かい、さらに周防の山口へと進みます。
しかし、後に陶晴賢によって自害へ追い込まれる大内義隆に、あっけなく追い出されてしまいました。
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その理由がまた
というものだったので……まぁ、宗教文化風習の違いは仕方ないですね。
その後は1551年、天皇と将軍に会うため、京までやってきます。
しかし、わけのわからん姿をしている上「神の教えが云々」とのたまうザビエルを、朝廷も幕府もすんなり通してはくれません。
当時の天皇は後奈良天皇で、将軍は足利義輝でした。
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後奈良天皇は京と民の復興を願って般若心経を自ら写経したり、伊勢神宮へ詣でるなど神仏への信仰がとても篤い方だったので、たぶん周りの人が気を利かせたのでしょう。
義輝はこの頃将軍職にはついていたものの、まだ京に腰を落ち着ける前だったので、そもそも京の市街にいなかった可能性もあります。
実にタイミングの悪いときに来たものです。
望遠鏡やメガネを進呈したら大内義隆の態度が一転
どちらにも会えない!
それを悟ったザビエルは(´・ω・`)顔で(?)京を去りました。
そこで、いったん平戸へリターン。
「土産物をたっぷり持っていけば、大内サンも布教を許してくれるかも」と思い立ち、荷物の中から西洋の文物をあれこれ引っ張り出します。
これが見事に当たり、初めて見る望遠鏡や置時計、ポルトガルのお酒、眼鏡などに大内義隆はホックホク。
以前キレたことも忘れて「ウチの領内は布教オッケー♪」とあっさり許可を出してしまいます。
現金すぎますね、大内さん。
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ザビエルもはりきって連日教えを説き、周防(山口県)で500人もの信者を獲得することができました。
豊後(大分県)にも行き、大友宗麟へもキリスト教を伝えています。
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そして大友家も後々滅亡の危機にさらされるのでした。
大内家といい島原の乱といい、なんか日本でキリスト教が広まるとロクなことがないような……。
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