慶長17年(1612年)3月21日は岡本大八という戦国武将が「火あぶりの刑」で処刑された日です。
まだ戦国の気風が残っている時期のこと。
それでも「火あぶりの刑」に処されるなんて、岡本大八とやらはよほど素行が悪かったのか? もしかして貴人の誰かでも殺したのか?
答えは微妙でして……。
岡本大八は、家康の側近だった本多正純の家臣でありながら、戦国大名の有馬晴信を相手に贈収賄詐欺を働き、大金をせしめたのです。
しかも、単なる詐欺事件で終わりません。
江戸時代の重要な政策である「キリスト教の禁止に繋がったのでは?」という出来事へと発展していくのです。
何がなんだかわかりづらいかもしれませんが、本記事での注目事は2つあります。
【岡本大八事件(1609-1612年)】
と
【ノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号事件(1608-1610年)】
です。
九州の戦国ファンには割と馴染み深い事件でしょうか?
しかし、高校の授業などで日本史を専攻していても、キリシタンに特別な興味でもなければあまり触れることのない同事件。
知っていると知らないとでは、やはり鎖国の理解にも影響してくると思うので、今回、いささか丁寧にあらましを追ってみました。
さっそく振り返ってみましょう。
コトの発端は朱印船貿易の船員だった
西洋をシャットアウトするかどうか――これらの事件は、まだ家康が迷っていた頃に起きたものです。
対日貿易を独占しようとするポルトガルと、それを切り崩して自国の利益増を狙うイスパニア(スペイン)やオランダ。
彼らの対立だけでなく、自らの保身と日本でのキリスト教を保とうとする長崎奉行・日本イエズス会の存在も関係してきます。
前提の話からして、既にドロドロっす。
事件の発端は朱印船でした。
伽羅木(きゃらぼく・木材にしたり果実を食用とする木)購入のため、徳川家康が有馬晴信に命じてチャンパ(ベトナム)へ派遣した貿易船がマカオに寄港したとき、船員がちょっとした暴動事件を起こしてしまいました。
当時のマカオはポルトガル領だったので、責任者は当然ポルトガル人です。
アンドレ・ペッソアという人でした。
彼は武力を持ってこの暴動を鎮圧し、日本人に多数の被害者が出てしまいました。
そこで彼はこう考えます。
「このまま黙っとくとマズそうだから、一応ちゃんと手続きを踏んで、日本にも話を通しておこう。でないと、貿易ができなくなって本国に怒られる」
そして自らノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号に乗って長崎へ来航したのでした。
「直接この国の一番偉い人に説明したい」
ペッソアは、長崎奉行・長谷川藤広に事件の調書を提出。
さらに「直接この国の一番偉い人に説明したい」と申し出ました。
しかし、藤広は『ただでさえキリスト教や西洋に対する目が厳しくなっているのに、こんなことを大御所様に知られたら国交断絶になってしまう。なんとか穏便に済ませたい』と考えたようで……。

徳川家康/wikipediaより引用
そのため、こんなコトを言い出します。
「事件の詳細は伏せて、ペッソアさんの書記の人を使者として駿府に送りましょう。私の身内を道案内と取次役につけますので」
ペッソアもこれを受け入れ、使者が出発しました。
しかし、別の問題が噴出します。
家康に物を売ろうとしていたポルトガル商人らが、先買権や日本との取引関係の改善などに対して不満を訴え、ペッソア自身が駿府に行くことを強く求めたのです。
実際は、イエズス会士らが日本の状況などを説明し、改めて止めたので実現には至りませんでしたが、藤広とペッソアの関係が悪化する元になりました。
そりゃあ、一度決まって実行に移しかけていること、しかも国同士の付き合いに関わることを、外野にギャーギャー言われて変更するの・しないのって話になったら、お互いに気分が良くないですよね。
藤広はその辺がよほど頭にきたらしく、ポルトガル人たちへの報復を考えるのでした。
ペッソア処刑がアッサリ確定
藤広は、朱印船を派遣した有馬晴信に対してこんな密告をしました。
「今、日本に来ているペッソアという奴が、マカオであなたの船の乗組員をブッコロしましたよ! これは大変なことですから、ぜひ大御所様に言上して処罰していただかなくては!」
おいおい、藤広さん、さすがにそれは酷いって。
そう泣きたくなるのがペッソアでしょう。
その頃、駿府では別の西洋人たちがやってきていて、家康たちがその対応をしているところ。
平戸に入港していたオランダ船からの使者と、上総で難破して日本側に救助されていた前フィリピン長官・ドン=ロドリゴ=デ=ビベロが、相次いで家康に謁見しておりました。
彼らはそれぞれ、自国と日本との交易を望んでおり、家康も「いいよ」と返事しています。
つまり、相手がポルトガルでなくても、西洋の文物を日本に入れられるルートが作られつつあったのでした。
そのため、晴信から朱印船の件を聞いた家康はアッサリ命じます。
「付き合いがめんどくさくなりそうなポルトガルはもういいわ。ペッソアとかいう奴は、責任取ってもらうってことで処刑。有馬のほうでカタをつけるように」

有馬晴信の木像(台雲寺所蔵)/wikipediaより引用
藤広も長崎奉行の権限を使って、ペッソアの取り調べをしようとしていました。
危険な空気を感じ取ったペッソアは船にこもって出港の準備を開始。
さらにそれに気付いた藤広も警戒し、晴信が駿府から長崎に帰ってくると、ノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号を拿捕する準備を始めました。
まさに、一触即発という状況です。
ヘタすりゃポルトガルと日本の全面戦争
慶長十四年十二月(1610年1月6日)。
日和待ちをしていたノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号を、有馬家の兵が攻撃しはじめました。
当然、相手からの大砲等による反撃で、有馬側も大きな損害を受けたのですが、数日後、ついに船は炎上します。
ペッソアは火薬庫に自ら火を放ち、船と共に沈んだと伝わっています。
もう少し後の時代であれば、ポルトガルと日本の全面戦争になってもおかしくないようなこの事件。
幸い、両国の距離が離れており、当時の航海技術ではポルトガルから大軍を即座に送るのは難しかったことなどから、そうはなりませんでした。
しかし何もなく済むはずもありません。この事件により、長崎-マカオの通行は一時止まってしまいました。
ただし、経済的な理由もあって、双方ともに早期解決を望んでいます。
マカオの経済は長崎との貿易に強く依存していたばかりか、この時代は日本側も関係を完全に断ち切ることは不可能でした。
生糸の生産量がさほど多くなく、中国からの輸入に頼っていたため、ポルトガル船が運んできてくれないと困ったのです。
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そこで関係修復への交渉は早めに行われました。
ポルトガル人からは、有馬家の兵などに対して処罰が求められました。
が、家康によって「今回の件に対して、さらなる処罰は認めないが、貿易は今まで通りにする」というお墨付きが出されます。
本来、この件はそこで片が付くはずでした。
というか、ポルトガルとの間の話はこれでカタがついています。
この先こじれてくるのは、国内での話。
ここから先が、いよいよ岡本大八事件となります。
旧領、戻したいよね?だったら、わかるよね?
ノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号攻撃の際、有馬晴信の監視役を務めていたのが岡本大八です。
家康の重臣・本多正純の家臣であり、晴信などの外様大名からすれば「お偉いさんに渡りをつけてくれる人」みたいなポジションですね。
時と場合によっては、ぶっといパイプにもなりうるし、目の上のたんこぶにもなりうる立場です。
大八は、当初の役割どおり監視役の務めを果たしていながら、そこで変な欲を出します。
「この件の首尾については、私から大御所様にきっちりご報告しますね。きっと鍋島領になってしまった有馬氏の旧領も戻ってきますよ。でも、そのためにはいろいろと入り用なんですよねぇ……(チラッチラッ)」
つまりは晴信に対して“賄賂”を要求したのです。
大名にとって、旧領回復は何よりの悲願。晴信に限らず、どこの大名でも同じです。
旧領を取り戻すためなら、大八へ多額の賄賂を贈ることをためらわなかったのでしょう。有馬晴信は言うがまま要求に応じます。
しかし、賄賂を要求する人間に、誠意なんてあろうはずがないのです。
その後、何年経っても、旧領回復の連絡が届きません。
シビレを切らした晴信は、大八の主人である本多正純に事の次第を聞きます。
当然、大八は「有馬殿から賄賂もらったんだって?」と正純に詰問されることになりました。
そして後日、駿府において大八と晴信の対決が行われ、大八に非があることが確定、彼は投獄されます。
事件はここでは終わりませんでした。
窮鼠猫を噛む?大八vs晴信で最終的に……
大八が「有馬殿は、長崎奉行の長谷川藤広を殺そうとしています!」と訴えたのです。
しかもこれが大八の嘘八百というわけでもなく、晴信にも後ろめたいところがあったものですから、さあ大変。
再び大八と晴信の対決が行われました。
結果、晴信もこの件については弁明できず、最終的に切腹を命じられています。
彼はキリシタンだったことから、自殺である切腹を拒み、家臣に斬首させたとか……。

有馬晴信の木像(台雲寺所蔵)/wikipediaより引用
なんとも後味の悪いこの事件。
まずはノッサ・セニョーラ・ダ・グラッサ号事件で、ポルトガル=カトリックに嫌気がさしていた幕府がいました。
さらに、岡本大八事件の当事者である大八と晴信がキリシタンだったこと。
事の経緯にイエズス会が絡んでいたこと。
こういった流れから、一連の事件は、幕府がキリスト教への感情を悪化させる大きな理由になったのです。
江戸幕府のキリスト教禁止政策については「キリスト教の考え方が、幕府にとって都合の悪いものだったから禁じられた」とまとめられがちです。
しかし、どちらかというと「キリスト教国家やキリシタンが立て続けにアレな言動ばかりしたので、幕府がイヤになった」という要因も小さくない気がします。
外国でトラブルばかり起こすよそ者を進んで迎え入れたいとは、フツー思わないですよね。
この後、1616年には欧州船の出入りが平戸・長崎に制限され、1624年にはスペイン船の来航そのものが禁止……というように入港制限は着実に進んでいきました。
さらに、1637年にはかの有名な【島原の乱】が起き、幕府からキリシタンへの悪印象は覆りようのない状態になっています。
これまた有名な【隠れキリシタン】は残りましたが、その話は以下の記事にて。
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鎖国までの流れの中に、実はこういう事件があったことも覚えておいて損はないんではないでしょうか。
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【参考】
国史大辞典「岡本大八事件」「ノッサ=セニョーラ=ダ=グラッサ号事件」









