伊達家 最上家

政宗は本当に白装束で秀吉にひざまずいたのか?伊達と最上の小田原参陣 その真実

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伊達と最上の小田原参陣
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大勝利のあと、弁明を考える羽目に

天正18年(1590年)、政宗は正月を黒川城(現会津若松城)で迎えました。連歌会ではこう詠んでいます。

七種を一葉によせてつむ根芹

七草を一気に摘んじゃったよ!

念願の会津を手にしたぞ! 北関東の佐竹も殴ってやる!

政宗としては、そんな風にして隻眼をギラつかせていたのかもしれませんが、その段階まで来ると否が応でも現実が見えてきます。

どうしたって、佐竹義重の背後に関白がちらつくじゃねえかッ!

そこで問題だ!

この惣無事違反となる会津攻めへの追及は、どうかわせばいい!

政宗はいろいろと弁明しました。

①軍事行動が禁止というけれど、関白の許しを得て、上杉が伊達領侵攻を目論んでいるじゃないですか。

②そもそも蘆名のせいですよ。蘆名は、父・輝宗に弟・小次郎を当主にすると約束していたんですよ。それなのに佐竹が義広を送り込んできた! しかもあいつら、最上はじめ、周辺の連中がよってたかってアンチ伊達につくようにして、そのせいで輝宗は横死してしまうし。蘆名が親の仇なんです! これは親の仇討ちだ!

⓷伊達は室町幕府から任じられた「探題」ですから! それなのに田舎者どもが勝手に背いたのが悪いでしょ!

④だいたい、未だに上杉が会津に侵攻していると聞いたんですけど、ルール違反ではありませんか?

⓹まぁ、負けた蘆名の連中が悪知恵働かせているんでしょう?

この弁明について「これはあなただけの言い分ですよね、関係者と協議、検討のうえ、判断します」とされたのは②のみ。他はあっさり無視されました。

最上義光もそうでしたが、上杉の違反はカウントされないようで……。

「はぁ〜〜〜? 俺は納得いかねえっすわ!」

政宗としては当然こうなるでしょう。

現実は切迫しても、心情的に落とし所を探ることができず、どうにもぐずぐずしていたことは確かなようです。

それでも3月頃には、タイムアップと理解した政宗。

小田原参陣】こそが秀吉への面会条件だと理解していました。

一方、最上義光はもっとまっとうな言い訳がありました。

父・義守がこの年の春に没しており「弔いを済ませてから参陣するため遅れる」という言い分があったのです。

義光はぬかりなくしっかりと、あのめんどくさい政宗を警戒するという含みも持たせていたのでした。さらには献上品や金子といった実質罰金も準備しておりました。

 


小田原出発前夜、政宗を襲う「御虫気」

しゃあない、そろそろ小田原へ出発だ――政宗がそう思ったとき、ある出来事により遅れてしまいます。

なんと母・義姫が、弟・小次郎に家督を継がせようとして毒を盛った!というのですが……これは現在、否定論が優勢です。

ただし「御虫気」――要するに何らかの深刻な体調不良はあったようです。

政宗はしばしば無茶苦茶なことをする癖があり、鼠の味噌汁を飲んだこともあるほど。酒乱の傾向もあります。

しかし、胃腸がどうにも弱いらしく、家督相続からまもなく後も「虫気」で寝込んだこともあり、義姫も「あの子はすぐお腹を壊すから」と心配しています。

実はストレス性の胃腸不良に悩まされてしまう。

【小田原参陣】前夜はストレスマックスで……というところが真相かもしれません。

でも、それではストーリーにしても盛り上がらないよね。と、仙台藩の担当者も頭を悩ませたのか、毒盛りのエピソードができたのでしょうか。

最上義光が伊達政宗・毒殺未遂の黒幕として扱われることも多いですが、義光としてはこうなるでしょう。

「こっちは親の葬儀を終えて、小田原向かう準備していて、無茶苦茶忙しくて、そんな余裕ありません!」

そもそも政宗は遅刻が多いらしく、ちょくちょく「遅刻します、すみません!」と書かれた書状が出てきます。つまりは、そういうタイプの人なのでしょう。

政宗の手紙
「二日酔いです・遅刻しそう・読んだら燃やして」政宗の手紙が気の毒なほど面白い件

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陸奥担当者としての徳川家康

伊達政宗と最上義光による【小田原参陣】。

早くから徳川家康が交渉窓口として機能していたことがわかります。

小田原に向かう最上義光は、徳川家康から出迎えを受け、感激しました。

やはり頼りになる人だ……と家康を信じ続け、二男の最上義親を早々に家康の近侍として出し、「家親」と偏諱を受けているほどです。これには家康も「大名子息を預かるなんて初めてだ、光栄だ!」と喜んだとか。

政宗は秀吉によく懐き、まるで亡き父のようだと振り返っています。小田原での面会がよほど好印象だったのでしょう。

しかし、それも悪化してゆきます。【秀次事件】では、政宗も義光も危機にさらされ、家康が助けに入っています。

政宗にとっての「豊臣は最低だ!」という思いの丈は、五奉行の一人・浅野長政への絶縁状にあらわれています。豊臣大名としての政宗の世話役であった浅野長政に、政宗は我慢がならなかったのです。

かくして政宗は、秀吉が亡くなると、即座に家康と姻戚関係を結びました。

秀吉の死後、石田三成ら豊臣の忠臣は苦々しく思ったことでしょう。

亡き太閤が家康めを陸奥の取次にしたことが、こうも祟ってくるとは!

はたして北の関ヶ原こと【慶長出羽合戦】において伊達・最上は、豊臣サイドだった上杉と対決することになるのです。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
渡邉大門編『秀吉襲来』(→amazon
佐藤貴浩 『「奥州の竜」 伊達政宗 最後の戦国大名、天下人への野望と忠誠』(→amazon
松尾剛次『最上氏三代:民のくたびれに罷り成り候 (ミネルヴァ日本評伝選) 』(→amazon
松尾剛次『家康に天下を獲らせた男 最上義光』(→amazon
小和田哲男『秀吉の天下統一戦争』(→amazon
笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』(→amazon
日本史史料研究会・白峰旬 『関ヶ原大乱、本当の勝者』(→amazon

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