北条早雲

北条早雲/wikipediaより引用

北条家

北条早雲が戦乱の関東に拠点を築く!正体は幕府のエリート伊勢宗瑞か

相模に根付き、関東全域に影響を与えた後北条氏の始祖・北条早雲

その出自や経歴を考えると、実は「伊勢宗瑞」あるいは「伊勢新九郎」という名前のほうがより正しいと考えられています。

後述しますが、元々は室町幕府の名門官僚の出なのです。

斎藤道三大内義隆など、戦国時代初期に名を馳せた、北条早雲の生涯を見てみましょう。

 

室町幕府のエリート武士だった

北条早雲本人の話の前に……戦国ゲームやマンガにおける「北条氏」って、かなり有名ですよね?

特に北条氏康は、武田信玄や上杉謙信と五分に渡り合い、関東No.1の武将に考えられるような存在。

その氏康の息子である北条氏政と、孫の北条氏直が、秀吉に小田原を滅ぼされますが、彼ら親子が降伏する1590年まで北条は関東でも最大の大名でした。

小田原征伐で秀吉相手に退かず! 北条家の小田原城はどんだけ強いのか

続きを見る

早雲から続く北条一族を整理しておきますと……。

1代 北条早雲

2代 北条氏綱

3代 北条氏康

4代 北条氏政

5代 北条氏直

早雲から始まり5代で滅亡したということになります。

北条氏綱が関東制覇へ向けて躍進!55年の生涯まとめ【戦国北条五代記】

続きを見る

北条氏康
北条氏康が関東制覇へ!謙信や信玄と渡りあった57年の生涯【戦国北条五代記】

続きを見る

北条氏政
北条氏政はなぜ最期まで秀吉に反抗した?その生涯53年【戦国北条五代記】

続きを見る

北条氏直
北条氏直が氏政の跡を継ぎ秀吉に滅ぼされるまでの生涯30年【戦国北条五代記】

続きを見る

 

では、北条氏はいかにして始まったのか?

古い戦国本になりますと、

「一介の浪人が今川氏や足利氏のトラブルに乗じて城を乗っ取り、下剋上で勢力を拡大した」

なんて解説がありますが、現在ではほぼ否定されています。

出自に関して様々な説がある早雲も、近年では

「父は伊勢盛定、母は京都伊勢氏当主かつ政所執事・伊勢貞国の娘である」

というのが有力です。

ゆえに伊勢宗瑞とか伊勢新九郎が本名だとされるのですね。

しかも、伊勢氏は単なる浪人なんかじゃありません。

父の盛定は、政所執事の伊勢貞親と共に、室町幕府八代将軍・足利義政の申次衆(将軍と武士を取り次ぐ役目の官僚)だったとされる人物です。

足利義政
足利義政(八代目将軍)が幕府崩壊の始まり?56年の切ない生涯まとめ

続きを見る

伊勢貞親は足利義政の育ての親ともいえる立場ですから【応仁の乱】前後によく出てくる名前。

本コーナーの応仁の乱をご覧いただいた方は、なんとなく覚えておられるでしょうか。

応仁の乱って何なんだ? 戦国時代の幕開けとなった乱戦をコンパクト解説!

続きを見る

そんな名門出身の北条早雲は、自身は「北条氏」を名乗っておらず、息子の北条氏綱の代からでした。

父の死後しばらく経った大永三~四年(1523~1524年)あたりとされています。

 

姉が今川家に嫁ぎ氏親を産む

早雲の血縁者としては、姉or妹とされる北川殿も重要です。

彼女は駿河守護・今川義忠の正室だと考えられています。

北川殿が文明五年(1473年)に産んだ今川氏の嫡男・龍王丸(後の今川氏親)と、早雲の関係も大きなポイント。

名門今川家の当主が甥っ子にいるというわけで、早雲自体の出自もなかなかの位であったことが想像できますね。

ただし生年は不明でして、現在有力な説が康正二年(1456年)。

その27年後の文明十五年(1483年)に九代将軍・足利義尚の申次衆に任命されているので、まあ打倒な生年でしょうか。

その前に足利義視に仕えていたとされる時期もあります。この説で行くとその頃10歳程度になってしまうため、義視には仕えていないかもしれません。

まあその辺は今後の研究で明らかになるとして、先へ進みましょう。

早雲は、1487年に奉公衆(幕府の武官)に任命。

幕府に仕えながら、建仁寺と大徳寺で禅を学んでいたとされています。

これは彼の人生観に大きく影響を与えました。

 

内紛につけ込まれた今川を救うべく……

後北条氏といえば関東ですよね。

元は幕府の中核にいた彼が東国へ向かったきっかけは、文明八年(1476年)に姉の夫である今川義忠が、(味方のはずの)東軍・斯波義良の家臣に討たれてしまったことでした。

早雲から見て甥っ子でもある今川龍王丸はまだ幼く、戦乱真っ只中の駿河を背負うには頼りなさすぎ。

このため今川氏の家臣である三浦氏や朝比奈氏などが、今川義忠のイトコ・小鹿範満(おしか のりみつ)を擁立して、家中が二分される家督争いが始まってしまいました。

すぐ近くに外敵がいるのに何やっとる……(´・ω・`)

って、戦国時代ってこういうお家騒動ばかりなんですけどね。

「早く次の当主を決めなければ! そのためなら手段は選ばない!!」

将軍家にも連なる名門・今川家は、そんな状況に陥っておりました。

この今川の騒動に介入しようとしたのが、堀越公方・足利政知(義政の異母兄)と扇谷上杉家です。

堀越公方からは執事の上杉政憲、扇谷上杉家からは家宰の太田道灌(最初の江戸城を作った人)が兵を率いて駿河へ。

完全にヤル気満々です。

太田道灌、暗殺! 初代江戸城の築城主が殺され後に謙信が世に出る

続きを見る

小鹿範満と上杉政憲は血縁があり、太田道灌も範満方としてやってきたといわれています。

つまり、龍王丸派は圧倒的不利な状況でした。

そこで甥っ子のために下向してきたのが早雲というわけです。

父・盛定らの命であり、実際、早雲は有能でした。

上杉政憲と太田道灌を騙すようなカタチで撤兵させ、

「龍王丸が成人するまで、範満が当主を代行する」

という案を出し、(少なくともこのときは)話を丸く収めます。

龍王丸派と範満派、それぞれに浅間神社で神水を酌み交わして、和議を誓わせたそうで。

範満は駿河館に入り、龍王丸は母・北川殿と小川城(焼津市)へ移って成長を待つことになります。

念押しのためでしょう。

文明十一年(1479年)には、前将軍・足利義政から【龍王丸の家督継承を認める書類】が発行されていました。

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-北条家
-