北条早雲

北条早雲/wikipediaより引用

北条家

北条早雲が戦乱の関東に拠点を築く!正体は幕府のエリート伊勢宗瑞か

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北条早雲
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将軍家や有力大名を巻き込んだ一大争い

命を受けた早雲は、明応二年(1493年)の夏~秋頃に、堀越御所の茶々丸を攻撃。

このとき、茶々丸に味方してしかるべきはずの伊豆の豪族たちも、早雲についたと言いますから、本人の人望のなさ・評判の悪さがうかがえますね。

伊豆討ち入り
戦国時代の北条家は早雲の「伊豆討ち入り」から関東へ進出した

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と言っても茶々丸も簡単にはやられません。

堀越御所から逃亡すると、近隣の武田氏や山内上杉氏などを味方につけて、数年間抵抗し続けるのです。

早雲も伊豆の国人たちを後ろ盾に、少しずつ茶々丸を追い詰めていきました。

この辺から、こんな構図が出来上がって参ります。

・足利義澄
・細川政元
・今川氏親
・北条早雲

vs

・足利義稙
・大内政弘
・足利茶々丸
・武田信縄
・上杉顕定

足利義稙と大内政弘、そして茶々丸の連携が機能していたかどうかは怪しい気がしますが……仮に、ここで早雲が上方へ戻っていたとしたら、義稙たちにとっては脅威になりかねません。

茶々丸に踏ん張らせて足止めさせる――というのは遠交近攻の道理に適っています。

早雲は、茶々丸の捜索(討伐)のため、明応四年(1495年)に甲斐へ攻め入り、甲斐守護・武田信縄(信玄のジーちゃん)とも甲斐と伊豆の国境付近で戦いました。

上記の通り茶々丸は、ときの将軍・義澄の母と弟の仇です。

その捜索と討伐に抵抗するというのは、名門・武田氏といえども立場的にマズそうなもんですが(おまけに甲斐の守護に戻ったばかり)、それだけ官位や幕府の意味が薄れていたのですね。

 

伊豆の韮山城を本拠にジワジワ追い詰め

後に後北条氏の本拠となる小田原城を奪取したのは、甲斐を攻めたのと同年の9月ごろとされています。

これまた時期については異説がありますが、残っている書類からすると、少なくとも明応十年=文亀元年(1501年)までには小田原城を取っていたはず。誤差があっても数年程度でしょう。

小田原城を攻めた理由は、当時の城主・大森藤頼が山内上杉氏に寝返った為と考えられています。

なお早雲自身は、その後も【伊豆の韮山城】を本拠としています。

後北条氏=小田原のイメージですから、これは意外に感じる方も多いかもしれません。

北条早雲の伊豆討ち入り/イラスト by 味っ子 wikipediaより引用

かくして徐々に茶々丸を追い詰めていった早雲。

明応七年(1498年)8月、南伊豆の深根城(現・静岡県下田市)を落とし、茶々丸を自害させてようやくこの問題を解決しました。

足利茶々丸公方墓/photo by 文屋将監 wikipediaより引用

実は、この直前、東海道沖を震源とする【明応の地震】が起きていました。

東は房総半島、西は紀伊という超広範囲に渡って揺れたという記録があり、推定マグニチュードは8.3~8.6ともいわれる大地震です。

元は淡水湖だった浜名湖に津波が押し寄せ、周囲の土砂を削り取って汽水湖(海水と淡水が入り交じる)にしたのもこの地震です。

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当然ながら、早雲と茶々丸がいがみ合っていた伊豆・駿河にも揺れや津波が来襲し、両軍に甚大な被害をもたらしました。

早雲はそれを逆手に取り、動ける者を集めて深根城城主・関戸吉信らを皆殺しにして茶々丸を追いこんだのだそうです。

この辺にも異説として、

「茶々丸は甲斐で亡くなった」
「深根城の皆殺しは別件」

などがありますが、いずれにせよ早雲のキレっぷりがわかりますね。

屋島の戦い】の際、源義経が「こんな嵐の中を攻めてくるなんて平家は思ってないから、むしろ奇襲する好機!」と押し切って船を出した話と似た作戦ですね。

もし彼らが同じ時代に生きていたら、意気投合したか、同族嫌悪で徹底的にやりあったか……。

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「二本の大きな杉の木を倒した鼠は虎になった」

早雲の電光石火な行軍により、宙ぶらりんだった堀越公方問題は(全滅という血なまぐさい形で)カタがつきました。

元々は足利義政の命令で足利政知も下向してきたので、幕府側である早雲が討つのは何だかなぁという気もしますが……。全ては足利持氏(四代目の鎌倉公方で、六代将軍・足利義教とケンカして最終的に鎌倉府を滅亡させた人)が悪いんや。

早雲はこの間、今川氏の親戚としても動いていたようです。

明応三年(1494年)頃から今川の兵を指揮して三河や遠江にも攻め込み、16世紀に入った頃には松平長親(徳川家康の高祖父)と戦闘。

これまでの経緯もあって、早雲と氏親は比較的親密であり、連携して領地を広げていったようです。

一方その頃、関東の北部では、山内上杉氏と扇谷上杉氏の内紛「長享の乱(1487-1505年)」が再燃していました。

なぜ同族で争っていたのか?というと、享徳の乱の終盤に内輪モメが始まり、それが尾を引いていたんですね。

だから、何やってんのよ、と……(´・ω・`)

早雲は扇谷家の上杉定正につきました。

しかし、山内家当主で関東管領でもある上杉顕定との対陣中に、定正が”うっかり”落馬して亡くなったため地元に帰っています。

他に、扇谷上杉氏は相模の三浦氏と大森氏を頼みにしていたのですが、この年に当主の三浦時高・大森氏頼)が相次いで亡くなり、大きく力を削がれてしまいました。

死因は、時高が自害あるいは病死、氏頼は寿命か病死とされています。

時高と氏頼は二人とも1410年代生まれなので、充分すぎるほど長生きではあるのですが……あまりにもタイミングが良すぎて、必殺仕事人(直喩)でも暗躍していそうなかほりがしますね。

この時代の「落馬で事故死」の信憑性は、現代における「心不全」とどっこいどっこいですし。

このとき早雲が、こんな夢を見たという話があります。

「二本の大きな杉の木を鼠が根本から食い倒し、その鼠は虎になった」

英雄譚によくある「夢のお告げ」というやつっすな。

二本の杉は山内上杉家と扇谷上杉家であり、鼠は子年生まれの早雲のことを指す、とされています。

いかにも戦国時代の人かつ野心家らしい夢ではありますが、何だか「ぼくのかんがえたかっこいいしゅっせほうほう」みたいな感じデスー。さすがに出来すぎなので、フィクションの可能性が高そうですけれども。

そして本来は鎌倉府の主だったのに、早雲の夢でさえ触れられない古河公方って……。

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