文明十八年(1486年)7月26日、太田道灌(おおたどうかん)が亡くなりました。
ご存知、最初に江戸城を築いた人として知られ、「持資」もしくは「資長」という名もあり「道灌」は出家後となりますが、本記事では後者で統一させていただきます。
出家したのがいつなのかもよくわかっていないですしね。
広い意味で皇居の親ともいえる彼の最期は暗殺だったとされます。
一体なぜそんなことになってしまったのか? それまでどんな生涯を送ったのか。
太田道灌の事績を振り返ってみましょう。
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既にややこしいことになっていた関東
太田道灌は永享四年(1432年)生まれ。
父は太田資清といい、関東管領上杉氏の一族・扇谷上杉氏の家宰を務めたことで、道灌も主家のために働いていく生涯をたどっていきます。
文安三年(1446年)に元服すると、康正元年(1455年)12月には父から家督と家宰の地位を継承。
本格的に戦乱の関東で指揮を振るうことになるのですが、いやはや、当時の関東は複雑極まりない様相を呈していました。
なぜなら、関東管領やら鎌倉公方やらが絡む戦がやたらと多く、ざっくりまとめるとこんな感じです。
【室町時代の関東戦乱事情】
◆上杉禅秀の乱(1416年)関東管領・上杉禅秀がワガママ鎌倉公方・持氏を倒そうとして失敗
◆永享の乱(1438年)足利持氏が上杉憲実を排除しようとして失敗、持氏が自害させられる
◆享徳の乱(1455年)足利持氏の息子・足利成氏が上杉氏&室町幕府を敵に回して28年も戦い続ける
◆長享の乱(1487年)上杉氏の身内争い
ご覧のように、誰も彼もが戦いに明け暮れていたわけですが、関東の戦乱がややこしいのは、同族の争い=登場人物の苗字が同じことが多い(特に足利や上杉)という面があります。
その点、太田道灌は割とキャラが立っているので認識しやすいかもしれません。
戦の傍らに築いた初代江戸城
太田道灌が生まれた頃は、永享の乱が起きる少し前のことでした。
アレコレやらかす足利持氏を、上杉憲実が頑張って諫言したり尻拭いをしていた時期です。
道灌は、母方の祖父と実父がこの一連の争いの勝ち組になったことで、中央から官位をもらい、現在の東京都品川区あたりに立派な屋敷を建てていました。
しかし、その後、事情が変わります。
勝ち組と負け組が入れ替わり、相手側が足利一門のお偉いさん・古河公方を担ぎ出してきたことでますます話がこじれ、前述の【享徳の乱】に発展。
この戦が起きた頃には道灌も20代になっており、何らかの関与をしたはずですが、詳細はわかっていません。
利根川がおおむね勢力圏の境目で、まずは千葉方面の守りを固めることが重要でした。
道灌は主家の扇谷上杉家を補佐して戦い、父と共に現在の埼玉県各所にも築城していたため、次はこの地域の防衛に取り掛かります。
そこで築かれたのが初代江戸城です。
康正二年(1456年)から築城を始めて長禄元年(1457年)4月8日には完成したとのことなので、道灌は享徳の乱の最中+家督継承の翌年にこの大事業を成功させたことになります。
太田家の内情については記録が乏しいですが、道灌の統率力や家中の協力のほどがうかがえますね。
ちなみに康正二年(1456年)前後には父・資清(出家して道真)の指導を受け、岩槻と川越にも築城したとされます。
当時の状況や時代から考えると「砦」ぐらいの規模感かと思われますが、トーちゃんなかなかスパルタです。
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