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【太田道灌】
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戦術や築城術だけでなく学問にも精通
江戸城の立地を選ぶまでの経緯にはいくつかの伝説がありますが、実際は「この辺りの領主だった江戸氏を追い出すための口実」なんて話も。
さすが戦国時代ですね。
道灌は、日枝神社をはじめ、江戸城守護のため神社もいくつか建てており、神をも恐れぬ!というタイプではなかったようです。
兵の鍛錬もしっかりやり、怠け者から罰金を取る代わりに、真面目な者へお茶代としてあげていたとか。
寛正六年(1465年)3月には上洛したという説もあります。
残念ながら詳しい記録がなく事実かどうかも不明。しかし、文明元年(1469年)、皇大神宮(伊勢神宮・内宮)の神職から道灌に対し「相模と武蔵にあるウチの領地の管理と年貢の確保をお願いしたい」という連絡が来ています。
こうした記録から察するに、上方への連絡を頻繁に行うなどして、信頼を得ていたのは間違いないのでしょう。
本来であれば、主家の扇谷上杉氏に依頼され、そこから太田家に実務が任されるという形が自然。
それを飛び越えて太田家に連絡したということは、上方でも「上杉より太田のほうが信頼できる、ゆえに直接連絡してもよかろう」と思われていたことがうかがえます。
道灌は鎌倉のお寺や足利学校などでエリート教育を受けておりましたので、戦や築城以外の知識も豊富でした。
自ら和歌を詠んだり連歌会や歌合せなどを行った記録も残されています。
足利学校が中世戦国の騒乱を生き残り現代に至るまで~上杉憲実の苦心に注目
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【長尾景春の乱】
文明五年(1473年)、山内上杉家の長尾景信が亡くなると、きな臭い空気が漂い始めます。
息子の長尾景春が父の地位を継げず、叔父の長尾忠景が跡を継いだことに不満を抱いたのです。
また、文明八年(1476年)3月に太田道灌が駿河へ出陣し、関東を留守にしていたこともその要因となりました。
道灌は、上杉定正の命で、今川氏の内乱を鎮めるため出陣したとされます。
このとき今川氏にいた伊勢宗瑞(北条早雲)に会ったとか……なんて話があり、いわゆる「英雄同士の邂逅」としてフィクションで描かれることもありますね。
一昔前までこの二人は同い年であるとされていたため、その辺にドラマ性を感じた人が言い伝えてきたのでしょう。
しかし近年、宗瑞は康正二年(1456年)生まれという説が有力になってきており、もしも二人が出会っていたとしても父子のような年齢差だったと思われます。
お互いに何か思うところはあったかもしれませんけれどね。
いずれにせよ、道灌が留守をしている間の文明九年(1477年)、長尾景春がここぞとばかりに反乱を起こします。
【長尾景春の乱】の始まりです。
この戦も非常にややこしいものでして……。
景春は扇谷上杉家と長年争ってきた敵(古河公方・足利成氏)と手を結んで挙兵したため、一筋縄ではいかなくなってしまいます。
「幕府は何をしていたんだ?」とツッコミたくなってきますが、京都でもあの【応仁の乱】が約10年前に始まっており、日本全国戦乱のどうにもならない状態。
仮に幕府が出てきても、一瞬矛を収めるだけで、景春が不満を抱いた時点でその後の流れは避けがたかったでしょう。
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