いま、大河ドラマ『べらぼう』で、最もインパクトのある人物と言えば?
えなりかずきさん演じる松前道廣が非常に際立ったキャラクターですが、それよりもさらに印象深いのが、その弟である松前廣年(ひろとし)でしょう。
演じているのは、ひょうろくさん。
水曜日のダウンタウンで一躍人気となったお笑い芸人で、話し方や間合いなどの“空気感”があまりにも独特過ぎるせいか、ドラマの中でも妖怪「ぬっぺっぽう(ぬっぺふほふ)」に喩えられていました。
以下の妖怪絵がそうですね。

鳥山石燕『画図百鬼夜行』より「ぬつへつほふ」/wikipediaより引用
実はこの絵の作者も、劇中で片岡鶴太郎さんが演じていた鳥山石燕(喜多川歌麿の師匠)なのですが……ともかく廣年に関して気になるのはこの一点でしょう。
あの人は実在するのか?
これが実在します。
なんせ1826年7月26日(文政9年6月22日)は彼の命日です。
であれば、あのドラマでの描写はどこまで史実に沿って描かれているのか?
ひょうろくさんのインパクトが強すぎて、全てがぶっ飛んでしまいそうな、松前廣年の生涯を振り返ってみましょう。
実は兄よりも知られているかもしれない弟
松前廣年(ひょうろくさん)と、その異母兄である松前道廣(えなりかずきさん)。
女中に向けて銃をぶっ放す兄の道廣が松前藩第13代藩主であり、弟は家老ですので、一般的には兄のほうが知名度が高くなるところでしょう。
しかし史実におけるこの兄弟は、弟のほうが有名かつ日本史の教材ではお馴染みの存在です。
松前藩の家老というより画家として名高いのです。
例えば以下の絵。

『夷酋列像』イコトイ(乙箇吐壹)/wikipediaより引用
廣年の代表作である『夷酋列像(いしゅうれつぞう)』であり、アイヌを描いた大変貴重な作品となっています。
なんとも細かく精緻に描かれていて、しかもフルカラー。
絵師の力量が相当確かでなければ生み出せないクオリティであり、美術品だけでなく史料としての価値も認められるほど。
日本史教材にふさわしい重要な作品です。
また廣年は、江戸時代の地方を代表する文人としても重要な存在と言えます。
最近は、上方浮世絵、土佐出身の弘瀬金蔵や、陸奥国出身の歌川国政も再評価されていますように、江戸時代の絵画は決して江戸だけではない――そう示すときにも廣年は意義のある人物です。
北海道ではしばしば彼の展覧会が開催されていて、今回の大河ドラマ『べらぼう』にふさわしい登場人物なのです。
藩主の異母弟、伯父は永倉新八の先祖
松前廣年は宝暦14年(1764年)、松前藩12代藩主・松前資広の五男として生まれました。
えなりかずきさん扮する松前道廣は宝暦4年(1754年)生まれであり、一回り年上の異母兄。
廣年の母は、藩士である長倉長左衛門貞義の娘・勘子となります。
この長倉長左衛門貞義の兄に、長倉栄治という人物がおります。
栄治の孫が、新選組最強剣士ともされる永倉新八――つまり、松前廣年と永倉新八は遠い親戚にあたるのです。

永倉新八/wikipediaより引用
その縁もあってか、永倉新八は蠣崎波響の描いた松茸の絵を譲り受け、大切に保管してたそうです。
藩主の息子という恵まれた立場に生まれた廣年ですが、それから程なくして明和2年(1765年)、父が没してしまいます。
次の藩主になったのがまだ幼かった兄の道廣であり、廣年は蠣崎広武の養子とされ、家老・蠣崎廣当の嫡孫となりました。
『べらぼう』の劇中では道廣と廣年の兄弟揃って「松前」とされますが、弟はあくまで「家老・蠣崎家の当主」という立場であり、彼の子孫からも家老が輩出されています。
生まれながらにしてほとんど将来の決まっていた廣年ですが、幼い頃から特異な能力がありました。
画才です。
8歳のころ、馬術の練習を目にして走る馬を描くと、その、あまりの出来栄えに周囲は驚愕。
才能を本格的に伸ばすべく、安永2年(1773年)に江戸へ送られ、廣年は江戸藩邸で南蘋派(なんぴんは)画家・建部凌岱(たけべ あやたり・綾足とも)に師事することになりました。
建部凌岱は弘前藩家老の家に生まれた上級武士です。
南蘋派とは、長崎に渡来した清の画家・沈南蘋(しんなんぴん)の影響を汲む派であり、上級武士らしい人選でした。

建部綾足『山水図 金龍道人賛』
安永3年(1774年)に建部凌岱が没すると、その遺言に従い、同じく南蘋派の宋紫石に学びました。
宋紫石も清の画家である清紫岩を師としており、風雅な画風となります。

宋紫石『岩に牡丹図』/wikipediaより引用
田沼時代には江戸で羽根を伸ばしていた
『べらぼう』の松前廣年は、吉原の客として登場していました。
開放的な田沼時代で、天明3年(1783年)のこと。
幼い頃から江戸で育てられ、絵を学び、開放的な空気を楽しんでいた時期にあたります。
劇中ではまだ20歳の青年ですから、この時代の廣年は、画家と親交を結んでおり、大坂の木村兼葭堂まで訪ねたことも記録されています。

木村蒹葭堂(谷文晁作)/wikipediaより引用
画才を磨き、文人としての活動をのびのびとしていた頃。
なまじ美的センスは持ち合わせているだけに、ロシア産琥珀の腕飾りを身につけ、絶世の美女・誰袖花魁に魅了されてしまう設定なのでしょう。
そうして気ままに遊んでいる弟が、何かやらかしてしまったら、兄である藩主・道廣が激怒するのも当然のこと。
繰り返しますが、この道廣は、火縄銃を構えて劇中での初登場を果たしました。

粗相をした藩士の妻を桜の木に縛り付け、その頭上の皿を狙い撃ちにするというおそるべき暴虐ぶりです。
道廣は、廣年が吉原にいたことを知ると、実弟でもこの鉄砲遊びの的にしようとして、廣年はたまらず気を失ってしまいました。
彼は道廣にとっては異母弟であり家老です。
それが江戸で吉原通となれば、激怒するのは自然の流れでしょう。やりすぎではありましたが……。
また、天明3年(1783年)は、史実の廣年が松前に戻される年でもあります。
大原左金吾(画号・呑響)が一年ほど松前に滞在した時期とも重なっており、その影響を受けた廣年は画号を「波響」とするのでした。
つまり『べらぼう』での初登場時は、蠣崎波響となる前の時期だったんですね。
大原左金吾は、このあと、松前藩の不穏な状況をもたらす人物として再登場することになります。
商場知行制から場所請負制へ
松前藩の状況も確認しておきましょう。
当時は松前でも【田沼時代】らしい変革に直面していました。
経済規模が大きくなっていたのです。
寒冷地である蝦夷地では稲作ができず、松前藩はアイヌとの交易で収益を得る特殊な成り立ちを幕府に許されていました。
当初は【商場知行制】という形式で、藩士たちが交易に関わっていたのです。
しかし時代がくだると経営そのものが厳しくなり、商業船から【運上金】を徴収し、商人に公益を任せる【場所請負制】へと移行してゆきます。

江戸時代の復元船「浪華丸」/photo by I, KENPEI wikipediaより引用
『べらぼう』でも田沼意次はじめ、【運上金】のことがしばしば話題にのぼっておりますね。
その政策がどんな影響を及ぼしたのか? 松前藩に答えの一端があるといえる。
【場所請負制】にはメリットがありました。
船を用いた交易はしばしば海難事故の危険を伴います。魚介類の不漁というリスクもあります。
しかし【運上金】は必ず上納せねばなりません。
松前藩側は常に一定の収入があり、リスクを避けることができます。
一方で商人としては、リスクを冒してでも挑むことになる。一攫千金を狙ういわば山師的な商人を惹きつけることになります。
このリスク軽減のための工夫が差別につながった一端として、こんな話が北海道のアイヌには残されています。
「シャモ(和人)は鮭を10匹渡すと、8匹ぶんの値段しか払わない」
商品を納入した際、最初と最後の分を数えず価格を決めたと伝えられているのです。
アイヌはどうせ数がわからないからそうして騙したのだろうと、苦い経験として語り継がれてきました。
ただ、和人側の理屈は推察できます。
鮭を確実に10匹手に入れたい。そのうち2匹が売り物にならなかったり、事故で失われてしまったらどうすればよいのか?
リスクを避けるためにも多めに12匹確保して10匹として扱おう……こうした思考をするのはありえたのではないでしょうか。

葛飾北斎『塩鮭と鼠』/wikipediaより引用
むろん、アイヌからすればたまったものではありません。
言葉が通じにくいこともあり、買取側の意図も説明しなかったからこそ、苦い記憶として残されてしまった。
そしてアイヌと和人の間にあるこうしたすれ違いは【場所請負制】によりますます悪化してゆきます。
場所請負制によりアイヌ人口が激減
鮭の塩引きはこのころから和人の食卓にのぼる定番のメニューとなり、アイヌの生活に打撃を及ぼしました。
カムイチェプ(神の魚)と呼ばれるほどアイヌにとって大事な鮭――それが乱獲されるだけでなく、捕獲のため労働力として駆り出されるのです。
食糧事情が悪化したうえに酷使されるとなれば、アイヌはどうなるか。
田沼意次の密命のもと、平秩東作は蝦夷地を見聞し、記録に残しました。
松前は田舎どころか、江戸や大阪も及ばないのではないかと思われるほど、繁盛していることが驚きをもって記録されています。
特産品は、遠く長崎まで運ばれ、海を超えて輸出。
まさしく田沼意次が理想とする経済の形がありました。
しかし、その繁栄はアイヌ搾取のうえで成立するものでもあったのです。

アイヌの人々(1904年撮影)/wikipediaより引用
こうまで商業が発達すると、アイヌの位置付けが変わってきます。
交易の民として営まれてきた暮らしが労働者として組み込まれてゆく。
しかも天明年間は本州で飢饉が起こり、食いっぱぐれた労働者たちが蝦夷地へ押し寄せ、彼らはアイヌを下に見て、労働の不満の捌け口としてしまいます。
搾取に組み込まれたアイヌの生活は激変しました。
労働ゆえの集住と、和人が持ち込んだ伝染病は、重大深刻な問題となります。アイヌは抵抗力がないため蔓延し、多くの犠牲者がでたのです。
かくしてアイヌの人口は激減。
商売を巡って和人との摩擦も増えてゆきました。
クナシリ・メナシの戦いとその戦後処理
寛政元年(1789年)、事件はアイヌと和人の摩擦から起こりました。
クナシリのサンキチが、和人から勧められた酒を飲んで亡くなったのです。
これが発端となり、クナシリ場所請負人・飛騨屋に対し不満を抱いていた同地方のアイヌが蜂起。
アイヌ側の対応は分かれたものの、ネモロ場所・メナシのアイヌは応じました。
出稼ぎの和人と藩士に死者が出たため、松前藩は鎮圧へ。
結果、蜂起したアイヌの首謀者37名は処刑され、その首と共に43人のアイヌが松前藩へ連行されてゆきました。
現代では【クナシリ・メナシの戦い】とされるこの戦い、当時は「寛政蝦夷蜂起」と称されましたが、この呼び方から当時の価値観も浮かんできます。
戦後、兄である松前道廣は、弟に対し家老としてではなく、絵師・蠣崎波響としての技能を生かすよう求めてきます。
結果、描かれたのが、先程掲載した『夷酋列像』となります。
この絵は鮮やかな服飾を身につけています。技法も確かであり、アイヌの姿は色鮮やかかつ精密。
しかし、注意すべき点はあります。
参考となる先行作品はあり、その中には中国の仙人のように、アイヌとは関係ないものもあります。
12人の名前にせよ、松前に連行された者の名は5名のみでした。
想像や先行作品をもとにして描いたのかどうか?
目的は何だったのか?
この絵のアイヌの目つきは特徴的とされます。
当時のアイヌを描いた作品に共通する特徴ですが、和人と明らかに異なる夷(えびす)であることが直感的にわかるよう、誇張があるとされます。
そんな技法だけではない、見るものを射るような何かがこの絵にはあります。
描かれた中で唯一の女性であるチキリアシカイは、クナシリの長老・ツキノエの妻でした。

『夷酋列像』チキリアシカイ(窒吉律亞湿葛乙)/wikipediaより引用
彼女ら捕縛されたアイヌと共に運ばれてきた首級の中には、彼女の息子のものも含まれていました。
そんな背景を知ると、彼女の目線に込められたものが何なのか、考えさせられてしまいます……。
『夷酋列像』と共に上洛す
寛政2年(1790年)に『夷酋列像』を完成させた蠣崎波響(松前廣年)は、寛政3年(1791年)、絵と共に上洛を果たします。
『夷酋列像』は、実は江戸でも京都でもすでに話題の作品。
高山彦九郎や大原左金吾が間に入り、ついには光格天皇の天覧に供されることとなったのでした。
これは明らかに、松前藩の政治的パフォーマンスでしょう。
蝦夷とは大和朝廷から討伐される対象です。
あえて蝦夷蜂起を鎮めた報告を江戸の「征夷大将軍」ではなく、京都の天皇に対して報告することは、どうしても政治的な意図を感じさせます。
高山彦九郎は尊王思想家としても名高い人物です。

伊勢崎藩家老・高山彦九郎/wikipediaより引用
そうしたことを踏まえれば、この一連のパフォーマンスは、時代の先駆けにも思えてくるのです。
幕末の京都において長州藩尊皇攘夷派は、孝明天皇の意に応じるべく夷狄を討伐しているという名目を振り翳し、政治に揺さぶりをかけました。
松前藩はまさにその前例を生み出したようにも思えるのです。

光格天皇/wikipediaより引用
こうしたパフォーマンスは、文人としての蠣崎波響の名を確たるものとすることにもなりました。
彼は京洛で文人たちと様々な交流をすることとなり、知名度はうなぎのぼり。
詩才にも恵まれ、当時、名を馳せた漢詩人である六如(ろくにょ)は廣年を「魏公子」になぞらえました。
『三国志』でお馴染み曹操、その息子・曹植(そうしょく)を指します。
確かに、詩才のみならず、君主の弟であるという境遇も、曹植と通じる。
松前藩の家老でありながら文人としても名高く、風雅な人物として名を馳せる一方、廣年自身は己を変えていったと思われる動きもある。
なお、当時の京都では円山応挙が圧倒的な人気でした。

円山応挙『金刀比羅宮表書院障壁画のうち竹林七賢図』/wikipediaより引用
彼に師事した廣年は、のちに松前応挙と名乗ったほど。
そしてアイヌを描いた作品は『夷酋列像』がその画業における唯一、最初で最後のものとなりました。
描かれた経緯や天覧の過程を見ていくと、この作品は純粋な絵というよりも、プロパガンダにも思えてきます。
そんな絵は二度と描きたくないと、彼なりに葛藤した末の決断なのでしょうか。
しかしそれが蠣崎波響の代表作とされるのは、なんとも皮肉なこと。
藩主の弟であり、家老であり、画家でもある――松前廣年は、実に数奇な運命のもとに絵筆を執り続けた人物でした。
松前藩、ついに上知されてしまう
寛政4年(1792年)、兄の松前道廣が隠居しました。
40歳を目前にした早い身の引き方ではありますが、こうした早い隠居は他藩にも例があり、藩政に口出ししないというわけでもありません。
跡を継いだのは安永4年(1775年)生まれの章廣。
廣年は叔父として、20歳前の若き藩主を支え、導こうとしたのでしょう。
寛政7年(1795年)、章廣の師として大原左金吾を招聘します。
そして翌年の寛政8年(1796年)、事件が起きました。イギリス船・プロビデンス号がアプタ沖(現在の北海道虻田郡洞爺湖町)に出没し、強引に上陸したのです。
このとき藩主の父である道廣は、章廣や家臣の制止を振り切り、自ら出陣するという暴挙に出ました。
もしも艦砲射撃でもされたら、どれほど危険だったか。
道廣は酒色を好む問題ある人物として悪名高いだけでなく、その行状が改められることも無く、藩政に悪影響を与え続けています。
そしてそれが最悪の結果に繋がりました。
藩の対応に不満を抱いていた大原左金吾が、藩を離れると『地北寓談』という報告書を幕府に提出したのです。
そこに書かれていたのは、なんとも荒唐無稽な、道廣とロシアの内通疑惑でした。
道廣がとある藩士の妻に思いを寄せ、女の信頼を得ようとし、秘密を打ち明けるとして漏らした恐るべき野心と計画。
それは松前藩がロシアと通じ、協力を得て徳川幕府を転覆し、己がとって替わる――。
さすがに、ここまで荒唐無稽な話を、確たる裏付けもなしに信じるわけにもいきません。
確かに松前藩に怪しいところは多々ある。
アイヌや商人を中継させない【抜荷】の噂も尽きない。
北の守りが手薄かつ、ロシアやイギリスの異国船が脅威であることも確か。
結果、松前道廣は素行不良と防衛の不手際を咎められ、

文化4年(1807年)に幕府から永蟄居(謹慎命令)を下され、文化5年(1808年)に解かれるまで継続させられました。
幕府の措置は道廣だけに止まりません。
文化4年(1807年)に松前藩は【上知】され、幕府直轄領とされると、松前家は陸奥国伊達郡梁川藩に転封されてしまったのです。
家老・蠣崎廣年ではなく、文人・蠣崎波響として、彼が活動する運命がこの先待ち受けていました。
松前藩復帰運動に奔走する日々
松前廣年は、何とかして藩を復帰させるべく、かつて培った文人としての名声と人脈を生かし、幕府に働きかけねばなりません。
家老であり、文人である彼の経歴が、ここでも役に立つことになるのです。
復帰への資金稼ぎのためには、蠣崎波響の作品が役立つ。
要は、自身の書画を売り、鑑賞会を開く――そうして文人ネットワークを通して復帰運動をするのです。

松前廣年『釈迦涅槃図』/wikipediaより引用
文政4年(1821年)、松前家はついに復帰が叶いました。
その翌年、松前に戻ると、江戸へと往来し、お礼のための挨拶回りに励むこととなります。
家老であり文人――その才知を常に生かし続けて、江戸と松前の間を行き来する日々。
そして江戸で病を得て、松前に戻ると、文政9年(1826年)、息を引き取りました。
享年63。
苦労の多い政治家であり、また文人としてのネットワークを活かしきった人物ともいえます。
江戸中期の文化を紹介する『べらぼう』には、実にふさわしい登場人物といえましょう。
兄との愛憎関係にはドラマの誇張もありますが、兄とロシアに翻弄され消耗させられる描写は、端的に彼の人生の一面を示しているといえるのかもしれませんね。
彼の人生と松前藩の動向を見てゆくと、時代の最先端を走っていたようにも思えます。
道廣がロシアと協力して討幕するという話は、あまりに荒唐無稽といえます。
しかし、幕末の薩摩藩は、イギリスから武器を買い付け、討幕を成し遂げてしまったといえます。
前述した通り、異民族討伐を成し遂げ、天皇の権威を政治パフォーマンスに用いることは、幕末の長州藩士が後に続くことになります。
日本の近代化は、海外情勢に目を向けていた西南雄藩が主導したとされます。
海外と接する機会があったという点では、実のところロシアと接触した松前藩が先んじているのです。それが幕府の警戒心を呼び寄せたことは、必然であったのでしょう。
夷絵とは何か?
蠣崎波響は【アイヌ絵】の代表的な絵師として知られています。
前述の通り『夷酋列像』しか描いていない。
しかし、あまりに卓越しているゆえにそう分類される。
かつては【夷絵】と呼ばれ、蠣崎波響が生まれた宝暦年間には、ちょっとしたブームが到来しておりました。
小玉貞良がその祖とされます。

小玉貞良『古代蝦夷風俗之図』/wikipediaより引用
松前藩は禁令を出したこともありますが、往々にしてこうした法はすり抜けられてしまうものです。
アイヌのイオマンテ(熊送り)や狩猟の様子が題材として選ばれることが多いものでした。

イオマンテを描いたアイヌ絵『蝦夷島奇観』村上島之允(秦檍麿)画を平沢屏山が模写/wikipediaより引用
蠣崎波響のあとも、平沢屏山らが描き続けました。
江戸っ子の異国情緒需要が、アイヌを苦しめてきた
蝦夷地は、江戸時代後期に向けて、ますます広く知られるようになっています。
現地を探検し、見聞を記す者も増えてゆきました。
その影響か、遠く江戸でも、蝦夷の物産品が親しまれてゆきます。
『べらぼう』でも一橋治済と三浦庄司がムックリを鳴らす場面がありましたね。
好奇心旺盛な者からすれば、アイヌ由来の品は独特の魅力があるのでしょう。
江戸時代前期における蝦夷地の特産品は、食材としての昆布や、材料となる鷹の羽でした。
時代が降ると【山丹交易】を経由した異国情緒漂う品も人気が及ぶようになり、交易は樺太を経由してアムール川下流域に暮らすツングース系のニヴフ族等と取引するまでなりました。

ニヴフ族/wikipediaより引用
人気商品は、蝦夷錦と青玉です。
蝦夷錦は山丹に暮らす人々の衣類を指し、『べらぼう』でも松前藩を示すシンボルとして背景に飾られていましたね。

蝦夷錦/wikipediaより引用
青玉はガラス製の玉です。
アイヌ女性が用いるタマサイ(首飾り)に使われています。

アイヌの首飾り・タマサイ/wikipediaより引用
江戸っ子にとって、蝦夷地は異国情緒にあふれており、そのモチーフのファッションを身につけることが“オシャレ”になったことがわかります。
歌舞伎の『博多小女郎波枕』では、海賊の毛剃九右衛門が着用する衣装に蝦夷錦が用いられることが定番となりました。
蝦夷錦は煙草入れといった小物にも用いられています。
青玉も装飾品を飾るものとして喜ばれました。
浮世絵にも、蝦夷地は取り入れられてゆきます。
歌川国芳は各地の名産品と美女を組み合わせた『山海愛度図会』を売り出します。
「松前おつとせい」では、美女がオットセイから作った精力剤を手にしています。
その背後では、アイヌがオットセイを狩る様子を描いた絵があります。同じく「松前鮭」の背後にも、鮭漁を行うアイヌたちの姿が描かれています。
江戸っ子は異国情緒を享受しつつも、それを担うアイヌが背景でどんな目に遭っていたか、理解していなかったと思われます。
廣年が生きた同時代、蝦夷地を探索した最上徳内は、『蝦夷草紙』をまとめました。
そこにはアイヌが蝦夷錦や青玉を山丹商人から買い取るものの、その代金を支払うことができず、奴隷として売り払われてゆく惨状が記されています。
妻子や老親を残し、働き盛りの夫や父が海を超えてゆく。こんな悪どいことがあるか――そう憤りを込めて記しています。
本来、蝦夷錦も、青玉も、儀式の際に酋長らが用いる限られたものでした。
それを松前藩が大量に買い取らせ、自分たちの特産品のように江戸へ売り飛ばしたため、アイヌは苦境に立たされていたのです。
先住民搾取の歴史まで続けなくてもよい
かつては【夷絵】と呼ばれ、今は【アイヌ絵】と称される作品は魅力的です。
史料としての価値もあります。
しかし、そこにある搾取の構図を無視することはできません。現在の社会においてもつながってくる問題なのです。
人気漫画『ゴールデンカムイ』が実写化される際、アイヌの役にルーツが一致する役者が起用されないことが問題視されました。
賛否両論あったものの、歴史を紐解けば見えてくるものもあります。
和人はアイヌのものを用い、愛でてきた長い歴史があります。
それは搾取と表裏一体のものでした。
世界各地でこうした先住民の搾取は問題視されています。
マジョリティ側が一方的に利益を享受することがないよう、ルーツの一致する役者を起用することが定着してきているのです。
マジョリティ側が許可なく先住民モチーフの品を販売、配布することも問題があります。アイヌ文化圏から和人が利用する「文化の盗用」とみなされかねません。
アイヌの意匠を手に取る際は、権利者の認定を得たものかどうか確認しましょう。そうしなければ、最上徳内が憤りを覚えていた構図に加担する一人となってしまいます。
そんな歴史は終わりにすべきでしょう。
『べらぼう』は、江戸中期の華やかな文化を描くとともに、その背景にあった搾取も描いています。
浮世絵の中で煌びやかに描かれてきた女郎たちが、どれほど血と涙を流してきたのか。その様が描かれてきました。
そしてそのあとの展開では、アイヌの搾取も見えてきます。
田沼意次と松前道廣が暗闘を繰り広げる影で、どれだけのアイヌが苦しめられてきたか。劇中に登場する蝦夷錦やムックリを見ながら、そのことにも思いを馳せたいものです。
ドラマの後の紀行で紹介された松前廣年の人生とは、近世から近代へ向かい経済が発展する中、先住民が搾取されていく流れの中にあったものなのです。
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【参考文献】
渡辺京二『黒船前夜』(→amazon)
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高橋博巳『画家の旅、詩人の夢』(→amazon)
岩崎奈緒子『ロシアが変えた江戸時代』(→amazon)
菊池 勇夫『日本の時代史19 蝦夷島と北方世界』(→amazon)
濱口裕介『松前藩 (シリーズ藩物語)』(→amazon)
岩下哲典『江戸将軍が見た地球』(→amazon)
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須藤隆仙/好川之範『高田屋嘉兵衛のすべて』(→amazon)
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