慶長元年(1596年)閏7月27日は初代・茶屋四郎次郎が亡くなった日です。
大河ドラマ『どうする家康』で中村勘九郎さんが演じたことから、その存在を知った方もいらっしゃるかもしれません。
徳川家の御用達を務めていた京都の豪商。
初代というだけあって、その子たちにも同名が引き継がれ、初代は「清延」と付けて「茶屋四郎次郎清延」と表記することもありますが、とにかくこの茶屋四郎次郎はキャラが濃い。
単なる商人に留まらず、いくつもの合戦に参加する他、家康にとって最もピンチだったとされる【神君伊賀越え】を成し遂げさせた立役者でもあるのです。
いったい何者なんだ……?
茶屋四郎次郎の生涯を振り返ってみましょう。
※本稿では「茶屋四郎次郎」表記で進めます
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元々は武士だった中島氏
茶屋四郎次郎は天文11年(1542年)、中島四郎左衛門明延の子として生まれました。
中島氏はかつて武士として小笠原氏に仕えていたのですが、浪人を経て京都で呉服商に転身。
商才がある家系だったようで、京都を中心に経済力を築き、永禄年間(1558年から1570年)には徳川氏の御用商人を務めるようになっていました。
さらに茶屋四郎次郎が茶を嗜んでいたことから、ときの将軍・足利義輝がたびたび屋敷で休憩を取るようになり、そこから”茶屋”という屋号ができたとも伝わります。
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元々が武家というだけでなく、将軍の来訪を受けることにより、茶屋家の人々は武士へのもてなしや価値観への対応などに習熟していったのかもしれませんね。
実際、後には徳川家の京都における宿も引き受けるようになっていきます。
そんな感じで、父の代に武家との親交を深めていった茶屋家。
茶屋四郎次郎は家康と同い年だったこともあり、若い頃から三河へ出向いて仕えていたとか。
そして家康から上方での買い物や武具の調達などを命じられ、ときには間者や情報収集なども務めました。
当然のことながら、それによって自分の利益も得ています。
徳川の合戦にもたびたび参戦
武家の出だからでしょうか。
茶屋四郎次郎は合戦の心得もあり、徳川家の戦闘にたびたび参戦していました。
などなど、家康の主要な合戦に数多く参加したといわれています。
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しかもただ戦場にいたというわけではなく、甲冑を身に着け、武勲も立てたといいますから、腕っぷしにも覚えがあったのでしょう。
当時の京都の治安を考えれば、商家が真っ先に賊の標的となることも考えられますし、茶屋四郎次郎も実家にいたころ、合戦の有無にかかわらず何かしら武術を習っていた可能性は否めないですね。
そんなわけで茶屋四郎次郎は「陰日向に家康政権の成立に貢献した」といっても過言ではなく、御用商人としての立場を確立できるのも頷けます。
とはいえ商人ですから、家康の家臣たちよりは目立たない……はずが、その名を現世にまで知らしめる大舞台がやってきます。
ときは天正十年(1582年)6月2日――そうです、本能寺の変です。
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