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【茶屋四郎次郎】
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本能寺の凶報を飯盛山で告げる
本能寺で織田信長が討死したとき、徳川家康はその信長の勧めによる堺見物をちょうど終えたところでした。
堺では、信長配下・松井友閑などの案内で、津田宗及などの豪商らと接触。
近畿エリアの多くは織田家の傘下にあったためか。
家康が連れていた家臣はほんの数十人であり、中には本多忠勝や石川数正、酒井忠次など歴戦の猛者もいましたが、万が一、大きな戦禍に巻き込まれれば、即座に全滅となりそうな小勢です。
一方、茶屋四郎次郎は、家康の遣いで京都にいました。
堺見物を終えた家康からの礼を信長へ伝えるため先に京都へ向かっていた――そんなタイミングで本能寺の変に遭遇したのです。
なぜ光秀は信長を裏切ったか? 本能寺の変における諸説検証で浮かんでくる有力説
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茶屋四郎次郎は、すぐさま家康の元へ向かいました。
大河ドラマ『どうする家康』では中村勘九郎さんが『いだてん』の如く疾走していましたね。
実際に自分で走ったか馬を使ったか不明ながら、大坂と京都の中間地点・枚方(ひらかた)辺りで、家康より先に京都へ向かっていた本多忠勝と遭遇。
明智軍によって信長が敗死したことを忠勝に伝えると、次に飯盛山辺りで家康にその報を告げたとされます。
以下の地図の通り、現在の大阪府大東市辺りですね。
そして織田信長だけでなく織田信忠が既にこの世になく、謀反人が明智光秀であることなどを知ると、家康はこんなことを言い出しました。
「自分も追腹を切る!」
実際の伊賀越えは?
あまりに突然に織田信長が討死したため、狼狽したのか。
家康は「知恩院で信長を追って腹を切る」と言ったと伝わりますが、実際は芝居だったのでは?という指摘もされています。
眼前に信長の側近である長谷川秀一がいたため、わざと忠誠心を見せたというもので、それが正しければ、こんな緊迫した場面でもしたたかさを持ち合わせる家康の凄さが垣間見える気もしますね。
しかし、当の長谷川や家臣たち、あるいは茶屋四郎次郎などの説得もあり、家康は【神君伊賀越え】と呼ばれる、三河への帰還を敢行。
生涯で最も危険だった――とされる伊賀越えを始めるわけですが、このとき他でもない茶屋四郎次郎の力が大いに発揮されます。
彼らが通ろうとしていたのは、信長に蹂躙された伊賀国。
伊賀出身の服部正成が頼りになるとはいえ、いずれの地域を通るにしても、そのエリアにいる地侍や農民は容赦なく襲いかかってくる危険性があります。
そこで茶屋四郎次郎が銀子、つまり金を配って、どうにか事なきを得ようとしたわけです。
商人ならではのアイデアですね。
そうして伊勢の海岸まで出て、以降、船で戻ることができた神君伊賀越え――それは以下のルートと目されます。
詳細は以下の記事にございますが、
神君伊賀越え・家康の逃亡ルートはどこだ?本能寺の変後に堺から三河へ命がけの脱出
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総距離は約200kmにも及ぶ長さであり、家康は無事に帰還すると、協力者に対し様々な形で報いており、もちろん茶屋四郎次郎もその一人でした。
上方を本拠とした豊臣秀吉に対抗するため、さまざまな戦略を用いた家康。
茶屋四郎次郎もその一翼としたのです。
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