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【茶屋四郎次郎】
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徳川と豊臣のパイプ役
前述の通り、茶屋家はそもそも京都で商売をしていました。
近隣その他の情報を集めることは朝飯前であり、徳川にとって非常に重要な存在。
ときには身の危険を感じることもあったようですが、なんとか乗り切りながら役目を務め、家康の信頼を勝ち得ていきます。
例えば【小牧・長久手の戦い】を経て、家康と秀吉が和解する際にも段取りを整えたほど。
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その結果、茶屋四郎次郎は秀吉からの覚えもめでたくなり、以降、豊臣・徳川両家で使者のような役割も務めるようになっていきます。
いかにもお金の匂いがする立場ですよね。
その表れの一つが、当時の帝・後陽成天皇の聚楽第行幸です。
このとき家康も饗応の準備に加わりましたが、現場責任者にあたる役目は茶屋四郎次郎が務めました。
すると、朝廷への工作や贈答品の御用聞きも増え、一つ仕事をこなすたびに金脈が生まれていくかの出世ぶりです。うーん、羨ましい。
小田原征伐の後、家康が関東へ移った後も、大切な役割を果たしています。
江戸の町割り、現代でいえば都市計画や設計に関わったのです。
有能かつスキル抜群で、もはやチート的存在ですね。
もしもこれで商家から武家に転身したり、さらに欲を出していたら、家康にかなり警戒されたことでしょう。
しかし、その後も茶屋四郎次郎は大事件の当事者になることはなく、慶長元年(1596年)閏7月27日に病で亡くなっています。享年52。
後世の我々からすると地味に思えますが、それだけ世渡りが上手かったということであり、茶屋四郎次郎が世を去った後も、彼の息子たちによって茶屋家はどんどん栄えていきます。
興味深いところですので、続けて少し見ておきましょう。
そして茶屋御三家へ
初代・茶屋四郎次郎清延の長男である清忠は、二代目四郎次郎を継承した後に早世してしまいました。
しかしその後が凄い。
清延の次男・又四郎清次が三代目四郎次郎を継ぐと、さらに事業を拡張させ、生業としている呉服のほかに、長崎貿易や朱印船貿易にも進出したのです。
さらには、京都における将軍家の御用聞きを引き受けたかと思えば、大坂の陣にも参戦しています。
父の血が濃そうな雰囲気ですね。
また、一昔前まで家康の死因と言われていた「鯛の天ぷら」は、この三代目四郎治郎が家康に紹介した料理だ……という説があります。
金地院崇伝の日記『本光国師日記』に書かれている話です。
天ぷらを食べてから家康が亡くなるまで約三ヶ月ありますので、近年では直接の死因ではないと考えられていますが、四郎次郎の存在感を示すエピソードとも言えるでしょう。
また、清延の三男・新四郎長吉は、家を出て独立し、尾張徳川家の御用商人となりました。
彼は新四郎を世襲名とする”尾州茶屋”を創設し、この系統もまた脈々と続いていきます。
まだ終わりません。
尾張があれば紀州もあるぞということで、清延の四男・小四郎宗清は、和歌山に移って紀州徳川家の御用達となるのです。
こちらも小四郎を世襲名とする”紀州茶屋”として続き、勢力を構築。
後に、徳川吉宗が登場し、将軍についてからは幕府の公儀呉服師を務めました。
こうして初代・茶屋四郎次郎である清延の息子たちは徳川御三家ならぬ”茶屋御三家”を創設し、幕末まで続いていったのでした。
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長月 七紀・記
【参考】
『国史大辞典』
桐野作人『<徳川家康と本能寺の変>主従わずか数十人 苦難の伊賀越え』(→amazon)
藤井讓治『徳川家康(人物叢書)』(→amazon)