そんなオープニングで知られる『暴れん坊将軍』は、ご存知、徳川吉宗をモデルとした時代劇です。
そのインパクトがあまりに強いせいか、初代家康を除けば徳川将軍の中で最も知名度が高く、大河ドラマ主役にも選ばれ、さらには2023年のNHKドラマ10『大奥』にも登場。
冨永愛さんが演じたことで改めて注目度は高まりましたが、そうなると気になってくるのが史実における徳川吉宗の姿でしょう。
貞享元年(1684年)10月21日に生まれ、享保元年(1716年)8月13日から将軍となり、寛延4年(1751年)6月20日が命日。
一体どんな人物で、いかなる事績があったのか。
【享保の改革】も含めて徳川吉宗の生涯を振り返ってみましょう。
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紀州藩主の四男として生まれる
貞享元年(1684年)10月21日 、2代紀州藩主・徳川光貞のもとに四男・源六、後の徳川吉宗が生まれました。
生母・お紋は身分の低い側室。
紀州藩士・巨勢(こせ)六左衛門利清の娘とされていますが、もっと低い百姓の娘とか、はたまた巡礼(諸方の聖地や霊場を参拝して回る人)の娘であるとか、様々な噂が流れました。
湯殿番だった女性に、光貞が手をつけて出来た子供とも言われたりします。
いずれにせよ、生母の実家が藩主の子を産み育てられるほどの規模でなかったことは確かなのでしょう。
産まれたばかりの源六は、家老・加納政直の家に預けられることとなりました。
以降、政直の子である加納久通とは、兄弟のように育つこととなります。
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源六は後に新之助と呼ばれ、頼方と名乗りました。
文武の修養に励むのみならず、野山を気楽に歩き回ったりするなど、歴代将軍の中でもかなり開放的な環境で育つこともできています。
また吉宗は、後に将軍となったため、ことさら逸話が誇張される傾向もあります。
その果てが冒頭に挙げた『暴れん坊将軍』でしょう。
あの作品で吉宗が世を忍ぶ姿として登場する“徳田新之助”は、青少年期の名乗りと境遇が反映されているのでした。
数奇な運命で将軍に
もしも何事もなければ、紀州藩で地味な生涯を終えていたであろう頼方。
宝永2年(1705年)に3代紀州藩主・綱教が死去すると、運命が一挙に動き始めます。
同年、その二弟である頼職も死去して、五十五万石の藩主、5代目の座が巡ってきたのです。
これを機に頼方は、綱吉から一字とった「吉宗」と改め、聡明で気力に溢れままに、紀州藩での改革に乗り出しました。
気のおけぬ加納久通と有馬氏倫らを側に置き、藩財政の再建に乗り出したのです。
かくして若き名君として吉宗の名が高まる――と同時に異変が起きつつあったのが、他ならぬ徳川将軍家でした。
跡継ぎ問題です。
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三代目・家光に至っては、長いこと女性に興味すら示さない。
この状況を解決すべく、家光の乳母・春日局が整えたのが日本式後宮制度・大奥とされています。
不安定ながらも、どうにか保たれてきた将軍の血筋。
それが享保元年(1716年)、七代将軍・徳川家継がわずか8歳で夭折してしまうと、幕府もなりふり構っていられなくなります。
家康まで血筋を遡り、御三家から藩主を選ぼう――として白羽の矢が立ったのが御三家・紀州藩主の吉宗。
かくして八代将軍の座が巡ってきたのです。
良く言えば幸運の星のもとに生まれたと言えますが、見方を変えれば、他者の不運が重なったからこそ回ってきた席とも言える。
自身が将軍になると決まったその日、吉宗は赤坂の中屋敷で弓を射ておりました。
そこで登城の命を受けて出向くと、6代将軍家宣の未亡人・天英院の命として将軍になるよう、御用人の間部詮房から告げられました。
吉宗は一旦は固辞します。
しかし天英院がそれを許さない。
結局、彼女に呼び出され、将軍職の就任を受諾せざるを得ません。
かくして享保元年(1716年)8月13日――八代将軍・徳川吉宗が将軍宣下を受けたのでした。
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