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【徳川吉宗】
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幕政を原点回帰へ
将軍の子供、あるいは兄弟が次の将軍となる――。
それまでの流れと違い、紀州藩主から将軍となった徳川吉宗。
いざその地位に収まると、課題が山積みでした。
まずは人事の刷新です。
一つずつ見て参りましょう。
◆御用人の廃止
五代将軍・徳川綱吉以来、六代・徳川家宣、七代・徳川家継まで、幕府の権力を握るのは御用人でした。
将軍と老中を結ぶ役職であり、例えば綱吉時代の牧野成貞や柳沢吉保が有名ですね。
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吉宗が将軍職についた時も、間部詮房と新井白石という有名な御用人がいました。
この二人は家宣と家継の時代、【正徳の治】に貢献した優秀な人物であります。
しかし、問題がないわけでもない。
間部詮房は家継の生母であり未亡人となった月光院とあまりに距離が近く、彼女と酒宴を楽しんでいるといったゴシップが流れました。
庭で開く宴に幼い家継まで同席させたから風邪をひき、幼くして亡くなったのだとまで言われるほど。
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新井白石は、たしかに優秀でした。
しかし同時に傲慢だとして悪評もたっていた。
吉宗はそんな反発を受け、この二人を罷免とし、人事刷新を進めて側近政治の打破をめざしました。
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◆老中と譜代の尊重
吉宗は側用人との距離を置く一方で、老中と譜代を尊重し、重用するようにしました。
◆「御用取次」と紀州人脈の登用
だからといって側近政治が終わったわけでもありません。
紀州時代からの信頼できる家臣・加納久通と有馬氏倫を「御用取次」に任命。
将軍と老中や奉行を取り次ぐものであり、ほとんど「御用人」みたいなものでした。いわば秘書業務ですね。
紀州藩からは他にも人材登用を進めて刷新をはかり、気心の知れたメンバーで組織作りを目指しましたのです。
◆質素倹約をモットーとして過剰な儀礼の簡素化をはかる
吉宗は質素好みで、麻の衣類を用いました。
そこで、幕府の儀礼も簡素化し、質素倹約を心がけるようにしましたが、周囲の反発がないわけでもありません。
後に、尾張藩主の徳川宗春が、あてつけのように派手で贅沢な政策を推し進めました。
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吉宗のこうした方針は、まとめてしまえば権現様、つまりは初代家康への回帰です。
太平の世で徐々に贅沢を覚え、たるんできた世に喝を入れる――そんな巻き返しが彼の掲げた政治方針。
それまで数代続いてきた、意志薄弱だったり、まだ幼い将軍とは異なる、質実剛健の将軍が君臨しました。
享保の改革
初代・家康への回帰と言っても、単に過去の手法へ時間を巻き戻すだけでは、とても名君とはいえません。
問われるのは時代に応じた変革――そこでよく知られるのが【享保の改革】です。
主だった政策を一つずつ見て参りましょう。
◆『公事方御定書』の制定
江戸幕府最初にして最大の法典『公事方御定書』が制定されました。
実はこの法制改革の影響は現在にまで及んでいます。
時代劇でお馴染みの大岡越前です。
「法律が改正されてなんだか暮らしが良くなった」
庶民がそう思ったからこそ『大岡政談』がフィクションとして広まり、「大岡裁き」という人情味溢れる裁定を示す言葉も生まれました。
大岡越前の大活躍は創作とはいえ、大岡忠相が人情味あふれる裁定をしていたことは確かです。
こうした法典整備は、吉宗に大抜擢された老中・松平乗邑(まつだいらのりさと)が行いました。
優秀な脇役として『大岡越前』シリーズにもたびたび出演していますね。
ドラマでは敵対することもありますが、実際は大岡忠相も大絶賛した切れ物であり、水野忠之とともに吉宗を支えた名老中でした。
◆米安定供給への奮闘
戦乱の時代が終わり、江戸時代を迎えると人口が増大します。
増えた人々をどう食わせていくか。
主食である米を安定的に供給することは、幕府の課題です。
蝗害や天候不順により飢饉が発生すると米の価格があがり、豊作だと価格が暴落する――こうした状況を制御するため、新田開発のみならず、米の取引にも取り組みます。
堂島米開所を設立。米の安定供給と価格暴落を防ぐことに尽力しました。
「上米の制」という献上米制度も制定しています。
しかし気候変動、人口増大、経済規模の拡大に追いつくことができたとは言い切れず、幕政の課題として残りました。
◆サツマイモをはじめとする植物栽培の奨励
南米原産のサツマイモは、当時のアジアにも伝わっています。
しかし、こうした芋類は嫌悪感を抱かれることが多く、栽培を奨励したい側と、受け入れる側の間で様々な工夫が行われました。
日本では青木昆陽によってサツマイモ栽培が奨励され、定着。
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味が合わないためか。ジャガイモは、サツマイモが育たない寒冷地で栽培されました。
◆薬草や朝鮮人参栽培の奨励
朝鮮人参や薬草、なたね油といった植物の栽培も奨励されています。
◆キリスト教に関わらない漢訳洋書の輸入緩和
江戸時代初期はキリスト教に強い警戒心をみせ、洋書の輸入を制限していました。
それを緩和し、西洋由来の技術を学ぶことを解禁したのがこの時代です。
「漢方医学」というと東洋由来の医学だけを想像するかもしれませんが、日本の場合は蘭方(オランダ由来)の医学も加わり、独自の発展を遂げています。
こうした改革あってのことなのです。
吉宗は現代で言えば理工系センスの持ち主で、和歌は上手でない一方、科学技術に興味を示しました。
そんな好奇心が当時の知識への扉を開いたといえます。
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