徳川吉宗

徳川吉宗/wikipediaより引用

江戸時代

徳川吉宗は家康に次ぐ実力者だったのか?その手腕を享保の改革と共に振り返ろう

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目安箱で実際に批判した山下幸内

享保の改革】の最後として、少し趣の異なる取組を見ておきましょう。

日本中で知らない人はいないであろう、こちらの「箱」です。

封建社会のど真ん中で、将軍様へ直接、政治的な意見を具申できる――そんな画期的なシステム。

と言っても現在のネット社会のように匿名でバンバン悪口を書けるような類のものではなく、投書内容は

1)政治に役立つ意見

2)役人の悪事・不正に関する通報

に限られていました。

では実際にどうやって投書するか? 仕組み等の話は以下の記事に譲るとして

目安箱
吉宗考案の「目安箱」はきちんと機能したのか~享保の改革に対する批判はあった?

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ここで注目したいのが山下幸内。

彼は堂々と吉宗に対する批判を述べました。

「紀州一国を治めていた頃の感覚が抜けていない。天下国家を統治する気構えがない」

吉宗は、この辛口意見を賞賛し、周囲に見せました。

そのため山下は急激に名が高まって来客が殺到し、引っ越しする羽目になったとか。

後に松平定信も、この意見書を周囲に見せ、感想を書き留めたそうです。

松平定信
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目安箱の意見により、現在にまで影響を与えた例もあります。

幕府の下級役人であった伊賀蜂郎次は、防火のために屋根は瓦葺きにすべきだと考えました。

しかし上司が「身分をわきまえろ」と却下。それでもめげずに上申し続け、ついにはお役御免で浪人となってしまいました。

伊賀は目安箱が設置されると、即座にこの意見を投書します。

すると採用され、十人扶持まで給されるようになりました。

時期的にこの逸話には誇張や創作も入っているとされますが、そんな逸話が生まれるほど画期的だったことは確かでしょう。

他にも「医師・小川笙船の投書によって小石川療養所が開設」されたり、「下総・上総に開墾すべき土地がある」との投書で、五~六万石にも及ぶ新田が開発されたり、世界史的に見ても、十分に画期的といえる改革でした。

徳川吉宗こそ、まさしく「中興の祖」でしょう。

社会の安定により人口が増大し、経済規模も膨張する時代を引き締めた。

確かに歴史の授業では「家康時代の再来めざして質素倹約を心掛けた」と説明されますが、それだけではなく、時代を切り拓く様々な挑戦を続けたのです。

改革を成し遂げた吉宗は、延享元年(1744年)に62歳で隠居し、宝暦元年(1751年)に没しました。

享年68。

『徳川実紀』では、家康に次いで記述量の多い吉宗。

それは彼の功績が多岐にわたり、個性的で逸話が多いことが反映されています。

「目安箱」や「大岡裁き」は現代の誰でも知っていますし、時代劇の『大岡越前』や『暴れん坊将軍』は定番中の定番。

フィクションにも吉宗の治世が反映されたのでした。

 


吉宗は好色なのか?

徳川吉宗は名君か否か――。

後世の人々が吉宗に理想を託したため、必要以上に持ち上げられた感は否めません。

個人的には名君だと思うのですが、実は江戸時代の人々はなかなか辛辣でして、将軍の大奥ゴシップは誰であろうと噂が広まります。

吉宗も例外ではなく、ひょんなことから大事件まで起きてしまいました。

御落胤伝説による【天一坊事件】です。

「御落胤」とは高貴な人物がもうけた隠し子のことであり、享保13年(1728年)夏、吉宗の御落胤を自称する天一坊が浪人を集め、最終的に斬首とされたのです。

事件は、実際には関与していない大岡忠相が裁いたことになりました。

講談や歌舞伎『天一坊大岡政談』として人気を集め、そうなると世間はこうなってしまいます。

「火のねえところに煙は立たぬってな。きっと将軍は好色だったにちげぇねぇ」

天一坊事件
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この騒動には、吉宗ならではの事情もありました。

紀州藩主になる以前の若いころ、吉宗は気楽な日々を送り、野山を駆け巡っていた。自由時間に美女とロマンスがあってもおかしくない――そんな発想から御落胤伝説が生じやすかったのです。

吉宗は確かに好色でもありました。

すべてにおいて家康回帰を目指していた吉宗は、女性の好みもそうであり、美女でなくてもよく、お姫様でなくてもよく、ともかく活発に手をつけたゆえ、噂の原因ともなった。

寵姫のせいで政治を左右されたり、世継ぎができなかったり、といったトラブルはありません。

「オットセイ」と言われた徳川家斉ほど極端でもなく、大奥との関係という点でも吉宗は問題がない部類に入ります。

徳川家斉
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むろん、現代人が考える品行方正とか純愛とは全く異なります。

男女逆転版のドラマ『大奥」でもそうでした。

劇中の吉宗は、史実の個性が反映され、美醜を問わず関係を持つ人物として描かれました。

伝統的なジェンダー観でいえば「男性的」「男らしい」人物であり、それは男女関係にも反映されていて、冨永愛さんが見事に表現されたのです。

彼女の演技が素晴らしかったことは、社会的な評価からも明らかでしょう。

2023年秋に開催された『信玄公祭り』で、主人公の信玄役に抜擢されたのです。

大河ドラマ『どうする家康』では阿部寛さんの信玄や、眞栄田郷敦さの勝頼などが登場していたのに、それを振り切っての冨永信玄――。

今後、また別の作品で徳川吉宗を演じる方にはプレッシャーとなるか、それとも奮発材料になるか。

あらためて吉宗という存在の大きさを実感させられるものでありますね。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
辻達也『徳川吉宗』(→amazon
『徳川吉宗のすべて』(→amazon
中江克己『徳川吉宗101の謎』(→amazon

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