太田道灌

太田道灌/wikipediaより引用

戦国諸家

太田道灌はなぜ暗殺されたのか? 江戸城を築き関東に名を轟かせた文武両道の武将

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八面六臂の大活躍

長尾景春の乱に際し、太田道灌は主家・扇谷上杉氏を助けて景春と戦いました。

同時に古河公方・足利成氏に単独講和を持ちかけ、まず景春の外堀を埋めると、その居城へ攻め込み、景春を追い出します。

この頃、どこかのタイミングで出家して「道灌」を名乗り始めたとされますが、明確な時期はわかっていません。

こうなると景春の惨敗?と思われるかもしれませんが、これが凄まじく粘り強い。逃げて逃げて逃げ回り続け、道灌が亡くなった後まで戦っているのです。すごい根性ですね。

いや、もっと別のところでそのスタミナを使っていれば、名将と呼ばれたかもしれません……。

時間を戻しまして、文明十二年(1480年)、一応この年に長尾景春の乱は平定されたことになっており、その後の道灌は穏やかな暮らしを楽しんでいました。

例えば、文明十七年(1485年)10月には禅僧の万里集九を江戸城に招いたり、文明十八年(1486年)春には建長寺・円覚寺の学僧らを招いて隅田川船上で詩歌会を開いたり、あるいは集九と共に父の道真を訪ねて詩歌の会を楽しんだり。

また、有名な話としてヤマブキの和歌の逸話が伝えられています。

あるとき道灌が鷹狩りに出て雨に遭い、近くの民家で蓑を借りようとしたとき、若い女からヤマブキの花をさし出され、その場では意味がわかりませんでした。

後日その女性の意図が

七重八重 花は咲けども 山吹の みの一つだに なきぞ悲しき

【意訳】山吹は七重八重の花を咲かせますが実が成らないのが哀れなものです。それと同じように、我が家にもお貸しできるような蓑がないのが悲しい

という後拾遺集の歌を引いたものだと後から知り、道灌が無学を恥じたという話ですね。

元ネタとする落語歌舞伎の演目も作られていますが、そもそも話の出どころが説話集『常山紀談』が出典ですので、史実かどうかは非常に疑わしいところ。

しかし道灌が学ぶことや和歌に全く興味のない人だったらこういう話は出てこないと思われるので、いくらかは彼の気質が伝わっていると見ていいのではないでしょうか。

歌集『花月百首』や歌合をした記録もありますし。

 


道灌の最期

そんなわけで文武両道かつ八面六臂の大活躍をしていた太田道灌。

いつの時代も有能な人をやっかむ無能は存在します。

「道灌は主君の上杉定正様よりもデカイ態度を取っている! けしからん!」

そんな風に言い出す者が現れ、あることないこと定正に吹き込む連中まで出る始末です。

道灌も自ら「今の扇谷上杉家があるのはわしのおかげである」なんて書いてしまっているので、疎まれる原因が全く無いわけではないんですけど。

しかも自分の活躍を39か条も書いてしまっているのですから、これでは鼻についた人がいてもおかしくはありません。

筆は災いのもと、とでも言いましょうか。

道灌も身に迫る危険についてはひしひしと感じていたらしく、長男を和議の人質として古河公方の下に送ります。

そしてその予感は、文明十八年(1486年)7月に見事的中することになります。

道灌は、主・定正の館に招かれた際、そこで暗殺されてしまったのです。

 


上杉家は滅亡寸前まで落ちぶれる

太田道灌、暗殺の首謀者は誰なのか?

上杉定正とも他の人とも言われており、また暗殺時の状況についてもハッキリしていません。

一説には「風呂場から出てきたところを斬られ、『当方滅亡!』と言い残して死んだ」といわれています。一体どうだったのやら。

”当方”が道灌自身のことなのか、上杉家のことなのかはよくわかりません。今際の言葉だから当たり前ですが。

道灌の一族や道灌に味方する人々は、この有様を見て「もう扇谷家はおしまいだー!」(※イメージです)と即断し、ライバルである山内上杉家へ身を寄せます。

そして、またしても長い長い戦いが続き、道灌の予言(?)通り双方の上杉家は滅亡寸前まで落ちぶれ、最終的に長尾景虎こと上杉謙信を頼ることになるのです。

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当時の寿命からして、暗殺されなくても道灌はあと十数年で亡くなっていた可能性は高いですが、もしここで殺されていなかったら、関東の勢力図は一風変わったものになっていたでしょう。

そうなると上杉謙信や北条氏康が世に出てこなかったかもしれず……とIFを言い出すとキリがなくなりますね。

有能だからといって、孤立するようなことをしてしまうと何もかもうまくいかないという好例でしょうか。いわんや凡人をや。


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長月 七紀・記

【参考】
丸山裕之『図説 室町幕府入門』(→amazon
渡邊大門『戦乱と政変の室町時代』(→amazon
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon
鈴木眞哉『<太田道灌と戦国時代>太公望の再来! 多芸な天才軍師太田道灌 (歴史群像デジタルアーカイブス)』(→amazon
永岡慶之助『<太田道灌と戦国時代>英雄たちの邂逅 太田道灌と北条早雲 (歴史群像デジタルアーカイブス)』(→amazon
国史大辞典
日本人名大辞典
世界大百科事典
日本国語大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
ほか

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