北条早雲

北条早雲/wikipediaより引用

北条家

北条早雲はどうやって戦乱の関東に拠点を築いた?正体は幕府のエリート伊勢宗瑞

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北条早雲
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小田原を中心に内政にもチカラを入れ始める

その後、早雲は相模~南関東制圧に進出します。

と、これに立ちはだかったのが上杉顕定。

早雲の後ろ盾にも等しかった足利義澄細川政元に接近し、これに対抗するため早雲も足利義稙と大内政弘に近づきました。なんだか応仁の乱で似たような構図があったような……。

上杉氏に対しては、定正の甥である上杉朝良が新しく扇谷家当主になったため、彼に味方しています。

また、ここでも今川氏親と組んで、永正元年(1504年)8月の立河原の戦いに挑み、上杉顕定に勝利しました。

おじと甥でこんなに連携するのもなかなか珍しいですね。

しかし、上杉顕定は弟の越後守護・上杉房能とその守護代(家臣)である長尾能景の援軍を得て、相模へ転身、扇谷家の城を次々に攻略。

河越城に追い詰められた朝良のほうが、先に山内家へ降伏してしまいました。

このため、早雲は山内家・扇谷家両系統の上杉氏と対立するハメに……。

手を貸した相手が先に降伏してしまったのですから、早雲としては自分も降伏するか、まとめて相手にするかの二択しかありませんでした。

一方、この頃の早雲は、小田原を中心に内政にも力を入れ始めています。

例えば、永正元年(1504年)には、京都の医者・陳定治を小田原に招いて

透頂香(とうちんこう/現在では「外郎(ういろう)薬」/和菓子のういろうとは別物)

の製造・販売をスタート。

永正三年(1506年)には、相模で初の検地を敢行しております。

外交や合戦のややこしい時期に、同時にこんなことをこなせるのは、やはり相当に頭がいいというか器用なタイプなんですね。

 


関東進出へ向けて激アツチャンスが訪れる

さて、ここでもう一度上方の情勢をみてみましょう。

永正四年(1507年)、細川政元がいつまでも跡継ぎをはっきり決めないせいで、養子一人である細川澄之にブッコロされました。

これをきっかけとする【永正の錯乱】により、細川家が内紛をおっぱじめます。

さらにその直後、政元と結んでいた越後守護・上杉房能が、守護代の長尾為景(上杉謙信の父)にブッコロされています。

この混乱を好機と見て、京都から閉め出されていた足利義稙と、その庇護者だった大内義興が上洛。

足利義稙が将軍に返り咲きました。

足利義稙
10代将軍・足利義稙は京都を出たり入ったり 一体何をした将軍だったのか

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早雲と氏親にとっては、自分たちに有利な人々が中央政権に戻ったことになりますね。後顧の憂いがなくなったともいえます。

そのためか、永正六年(1509年)以降の早雲は、今川氏の親戚としての活動がほとんどなくなり、相模を含めた南関東攻略に集中するようになります。

氏親もこの間、藤原北家の流れをくむ正室・寿桂尼を迎えていましたし、年齢としても30を超えて、名実ともに叔父から独立すべき段階だったのでしょう。

寿桂尼
寿桂尼(義元の母)は信玄にも一目置かれた今川家の女戦国大名だった

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とはいえ、そうさっさと進むことはできません。

扇谷上杉氏のシマだった江戸城まで攻め込もうとして、逆に押し込まれて小田原城まで迫られ、和睦したこともあります。

しかし、それから程なくして山内上杉氏の当主・上杉顕定が長尾為景に敗れて自害。

後継者の地位を巡って、顕定の二人の養子・顕実と憲房の争いが発生します。

さらに、古河公方家でも足利政氏・高基父子が対立……と、早雲にとっては激アツチャンスが訪れます。

扇谷上杉氏の当主・上杉朝良がこれらの調停に追われ、隙が見え始めたのです。

 


三浦氏を滅ぼし、ついに相模の覇者となる

早雲から見て、目下一番の攻略目標は相模の三浦半島でした。

地図を見てもらうとわかりやすいのですが、三浦半島は小田原と江戸の中間地点にあり、扇谷上杉氏の家臣となった三浦氏の拠点でもありました。

ちなみにこの三浦氏は、源頼朝の重臣だったあの三浦氏の傍流子孫です。

三浦義村
三浦義村の生涯とは?殺伐とした鎌倉を生き延びた義時従兄弟の冷徹

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こういうパターンは、「滅亡」と「全滅」が同義ではないことがわかりますね。

戦略を切り替えた早雲は、永正九年(1512年)8月以降、相模の城を次々と攻略。

扇谷上杉氏から三浦氏側に援軍が来ましたが、これも追い返しました。

そして四年がかりで三浦氏を滅ぼし、相模の勝者となります。

この途中で早雲は鎌倉にも行っており、こんな歌を詠んだといわれています。

「枯るる樹に また花の木を 植ゑそへて もとの都に なしてこそみめ」

【意訳】今は枯れた木のようなこの場所に、また花咲く木を植え直して、元の立派な町に戻してみせよう

早雲の意気込みと、永享の乱以降荒れる一方だった鎌倉の姿が伺える一句ですね。

これには頼朝もニッコリ?

伊勢氏は遡ると桓武平氏=根っこが平家(伊勢平氏)と同じになので、その辺がビミョーかもしれませんが……。

その後の早雲は、上総の真里谷武田氏(※)を支援するため房総半島に渡り、永正十四年(1517年)まで転戦。

真里谷武田氏は自分のところのお家騒動に加え、古河公方家のお家騒動で逃げてきた足利義明を迎えて「小弓公方」にしており、火種が多すぎて地雷原になっていました。

だから、なんでどこの家も「内紛を起こせば他家に手と口を出されてgdgdになる」ことがわからないんですかねぇ……。

早雲が亡くなったのが永正十六年(1519年)であることを考えると、亡くなる二年前まで現役で戦場に出ていたことになります。すげえ。

ちなみに、嫡子・氏綱に家督を譲ったのも永正十五年(1518年)というギリギリっぷりなので、上総から手を引いたのは自身の健康に不安を感じ始めたからなのかもしれませんね。

北条氏綱/wikipediaより引用

 

税負担の軽い「四公六民」を導入す

上記の通り、早雲の生年がまだはっきりしないので、享年も諸説あります。

今のところは、享年64説がやや優勢ながら、享年88説も存在。

後者の場合ですと、86才まで現役で戦をやってたことになるわけで……さすがにそれはちょっと。

また、死の前年から早雲は虎の印判状を用いており、「印判状のない徴収は無効」という決まりを作っていました。

これによって、代官が百姓や職人から無理やり税を取ることを禁じたのです。

さらには後北条氏の領内での年貢を「四公六民」、つまり「四割を殿様に収め、六割は農民のものにしていい」としたのも、早雲からだとされています。

これは当時としては低いほうの税率でした。

他、分国法のはしりとされる「早雲寺殿廿一箇条(そううんじどのにじゅういっかじょう)」も定めたとされていますが、当人の手によるものかどうかは不明。

中身は法律というより家訓に近く平易なもので、禅宗や御成敗式目の影響と思われる点がみられます。

こうした早雲の内政の上手さや、代々正室から男子が生まれて、お家騒動が起きにくい状況だったことなどが功を奏して、元々はよそ者だった後北条氏が安定した基盤を築くことができたのでしょうね。

廿一箇条の一部や、他の早雲の逸話は小田原市のホームページでたくさん見られるので、中身が気になる方はそちらで検索してみてください。

ゆうきまさみ先生による早雲を主人公とした漫画『新九郎、奔る! 』(→amazon)も人気がありますね!

アンゴルモアといい、マンガ界では中世ブーム? 難しいけど描きがいはあるでしょうね。

大河ドラマでも戦国と幕末の反復横跳びが終わったら、中世のターンが来る……かもしれません。


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長月 七紀・記

※……真里谷武田氏(まりやつたけだし)。武田信満の子・武田信長に始まる上総武田氏の分家。

血縁関係としては以下の通りとなります。

甲斐武田氏第13代・武田信満

信満の次男&上総武田氏初代・武田信長

上総武田氏二代・武田信高

信高の子&真里谷氏初代・真里谷信興

信興の子・信勝←この方が早雲時代の真里谷氏当主

【参考】
国史大辞典「北条早雲」
北条早雲/wikipedia

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