南北朝問題の絡みもあって、最初から不穏な空気で始まった室町幕府。
八代将軍・足利義政の時代に、その混迷は極まります。
皆さんご存じ【応仁の乱】です。
今回は、延徳2年(1490年)1月7日に亡くなった義政の生涯と共に、応仁の乱やその他のゴタゴタがどうして起きたのか、どのような経緯をたどったのか、全体を俯瞰して見てみましょう。
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足利義政が8才で家督&将軍職を継いだとき
足利義政は、六代将軍・足利義教の次男です。
七代将軍・足利義勝とは同じ母から生まれた弟でした。
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義勝が無事成長していれば、柱石として兄の下で働くか、争いを避けるためにお寺に入れられるか、どちらかになっていたでしょう。
しかし義勝が10歳で亡くなってしまい、そうも言ってられなくなります。
八歳で家督を継ぎ、将軍職を継ぎ、親政を始めたのは享禄四年(=康正元年、1455年)ごろから。
それまでの間に、義政は完全に頭を押さえつけられた構図になってしまっていました。
「三魔」と呼ばれる三人の側近たちと、母・日野重子&正室・日野富子の実家である日野氏、その他有力な守護大名などが、こぞって義政の力を大きく削ぎにかかっていたのです。
三魔とは、以下の三人を指します。
・今参局
・烏丸資任
・有馬元家
一人ずつ見て参りましょう。
今参局:義政の乳母
今参局とは「新参の局(女性)」という意味で、あだ名のようなものです。
本名は不明ですが、父親は大館満冬という人でした。
大館氏は新田氏の流れをくみ、新田義貞にも仕えていたのですが、袂を分かって室町幕府の臣下となっています。
また、満冬の「満」の字は三代将軍・足利義満からの偏諱です。
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元々将軍家に近い家柄だったのが、今参局が足利義政の乳母になったことでさらに力を得た、という捉え方で良いかと。
例えば、今参局は宝徳三年(1451年)に尾張守護代・織田敏広をクビにし、先代の守護代・織田郷広にすげ替えようとしたことがありました。
この時点でよほどの勢力を持っていなければ、そもそもこんな事を思いつきもしないでしょう。
これはさすがに義政やその母である日野重子、管領の畠山持国・細川勝元・山名持豊らが大反対して実現していません。
応仁の乱のことを思うと、
「何だよ、お前ら一致団結できるんじゃん(´・ω・`)」とツッコミたくなってしまいますね。むろん、この時点では未来の話ですが。
その後も、今参局の政治的立場は強かったようですが、同時に恨みも買っていた。
義政の正室・日野富子が長子を身ごもったとき死産になってしまい、それが「お今の呪詛のせいだ」と言われたのです。
当時の呪詛はただのオカルトではなくマジモンの犯罪でした。
おそらく「今参局が呪詛をかけさせた」なんて証拠はなかったと思われますが、「いかに今参局が日頃から恨まれていたか」がわかります。
そして琵琶湖の沖島に流されることになった……のですが、その護送中に今参局は近江蒲生郡甲良荘の仏寺で自害したといわれています。
その後、富子は今参局の残り香も許さず、義政の側室の中で今参局と親しかった人物を追い出したとか。
このため話が混同し、一昔前までは「義政の”側室の”今参局が富子と対立していた」と書かれることも珍しくありませんでした。
上記の通り、「今参局」自体は普通名詞なので、三魔のほうと側室のほう、二人の両方ともが同じ呼び名だった可能性は否定できないですね。
烏丸資任:義政の母・重子の従弟
足利義政は長禄三年(1459年)まで烏丸資任の屋敷で生活していたので、彼が実質的な義政の後ろ盾になりました。
しかし、応仁元年(1467年)に出家し、乱を避けて自分の領地だった三河国伊良湖御厨(現・愛知県田原市)に下向。
文明十四年(1482年)に同地で亡くなったといわれています。
これでは「幕政に口を出しまくって好き勝手やった挙げ句、自分は安全なところに逃げてそのままこの世からもおさらばした」ということになってしまいますね。
忠義心があれば、義政に帝王学を身に着けさせるなり、最後まで京に残るなりしていたはずですから。
とはいえ、地元ではそれなりに慕われていたようです。
彼のお墓がある霊山寺(愛知県田原市)付近には、「婦人病で悩んでいた女性が黒髪を供えて熱心にお参りしたところ、病気が治って無事結婚できた」という伝説があったとか。
資任のご利益なのか、ここの御本尊の霊験なのかはよくわかりませんが……。
島津歳久のように、自ら女性の味方となったような発言が記録されていれば信憑性が出るのですけれども。
有馬元家~赤松氏の支流・有馬氏の有力者
当初は足利義政の寵臣でした。
が、次第に煙たい存在になっていったようです。
赤松氏は【嘉吉の乱】で義政の父・義教をブッコロしてしまっていますから、元家が直接関わっていなくても、ふとしたことでその印象が出てきてしまうというのはありえることですよね。
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一時期、赤松氏絡みのトラブルで有馬郡の守護をやっていたこともありました。
応仁の乱の頃には足利義視に仕えていたが、義政の差し金で暗殺されています。
三魔の中で最後まで京都にいたのはこの人だけなので、義政が復讐しやすかったともとれますね。
こんな感じで、決して自由に動ける状況ではありませんでしたが、若い頃の義政は真面目に仕事をしようとしていました。
父・義教や祖父・義満のように、将軍の権威でもって世を安定させようと、采配を振るったこともあったのです。
例えば以下の通り。
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