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【北条氏綱】
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桓武平氏の流れを汲む伊勢氏
代替わりの政策がひと段落した大永3年(1523年)。
氏綱は自分の名字を「伊勢」から「北条」へと改めました。
「えっ、そもそも氏綱は北条氏じゃないの?」
そう思われるかもしれませんが、これまで父の宗瑞がそうであったように「伊勢」という旧来の名字を名乗り続けていたのです。
原稿上でも、便宜的に「北条氏」の名前を使っておりましたが、正確にはこの大永3年以降をもって「北条氏」の歴史がスタートします。
では、なぜ先祖代々の名を捨て「北条」を名乗ったのか?
誤解のないように言っておくと、「伊勢」という名字も桓武平氏の流れをくむ由緒正しいものであり、決して格は低くありません。

桓武平氏の祖とされる葛原親王/wikipediaより引用
それでも改称を決断した理由には、対抗勢力である扇谷上杉氏との立場的な違いによる「強烈なコンプレックス」が隠されていました。
まず、当時の扇谷上杉氏は、正式に相模国の守護であることを認められた家柄であり、対外的にも「相模国主」としての格式を有していました。
一方、小田原に移転してきた伊勢氏は、勢力こそ秀でていたものの、土着の勢力からしてみればあくまで「他国の逆徒」、つまり「いけ好かないよそ者」に過ぎなかったのです。
北条氏綱はこの現状を変えるべく、【実質的な面】と【名目的な面】からアプローチをかけます。
「よそ者・伊勢氏」から「相模の支配者・北条氏」へ
実質的とは、相模を中心とした領国支配の確立です。
前述の虎印を用いた政治力・軍事力を背景に支配者としての存在感を見せつけ、「もはや彼らが相模の支配者でいいのかも…」と思わせることを狙いました。
もうひとつの名目的なアプローチが「伊勢から北条への改姓」です。
ここでいう「北条」とは、言うまでもなく鎌倉時代に執権として将軍を補佐した北条氏を指します。
その父・北条時政。
そして、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で一躍“時の人”となった北条義時。

北条義時イメージ(絵・小久ヒロ)
言うまでもなく彼らの影響力や拠点は既に滅亡しています。しかし“北条”という名前やブランドイメージは決して軽視はできないはず。
そこで北条氏綱は、前時代の正当支配者を名乗ることで「我々はよそ者ではなくあの北条氏の後継者である!」という名目に変え、自分たちの正当性を証明しようとしたのです。
言い換えれば、正当な後継者ではないから、名前だけでも強引に変えた!ということなんですけどね。
名乗ったもん勝ちということでえしょう。
一応、宗瑞の母方に「遠縁がある」とする史料も残されていますが、これは後世の創作である可能性が高い。
歴史を語る上で「北条氏」と「後北条氏(早雲や氏綱たち)」という区別がなされるのはこのあたりに理由があります。
「なんと紛らわしいことを…!」と眉をひそめる方もおられるかもしれません。
それでもここで北条姓を名乗り、関東の勢力として地盤を築いたことにより、
【戦国大名・北条氏が誕生した】
という見方もあるほどです。
山内&扇谷上杉氏との抗争 江戸城を獲る!
領国支配の体制を盤石なものとした北条氏綱は、大永4年(1524年)ごろから扇谷上杉氏・山内上杉氏の攻略に着手します。
もともと北条氏と扇谷上杉氏とは暫定的な同盟関係にありましたが、おそらく「相模の支配者」を大々的に名乗ったことで敵対関係となったのでしょう。
氏綱は、武蔵国・相模国の国衆を服従させながら攻略を進めていきました。
一方、これに危機感を覚えたのが扇谷上杉の当主・上杉朝興(ともおき)です。

北条氏綱と関東の各勢力/photo by 野島崎沖 wikipediaより引用
朝興は、長年敵対していた山内上杉の当主・上杉憲房に和解を申し入れ、扇谷上杉氏と山内上杉氏は協力関係を構築。
さらに彼らは、北条と敵対関係にあった甲斐の武田信虎との結びつきも図り「北条包囲網」を結成しようとしました。
武田信玄の最初の妻が、上杉朝興の娘であるのもこうした背景があったんですね。

武田信虎(左)と息子の武田信玄/wikipediaより引用
しかし、これを黙って見ている氏綱ではありません。
山内上杉氏との講和に向け、江戸城から河越城へと移動していた上杉朝興の隙を突く形で江戸城へ攻め込み、留守役を任されていた太田資高を内応させて同城を攻略するのです。
江戸城は、もちろん徳川家康の建てた江戸城とは違います。
それでも当時は関東の流通を担う重要な拠点であり、北条氏綱がここを所有したことは非常にショッキングな出来事でした。
彼はここを拠点として武蔵国北部や下総への進出もできるようになり、以後、この地に「江戸衆」を配置して管理にあたらせたのです。
氏綱の快進撃は止まりません。
江戸を拠点に入間川(現在の荒川)を越え、山内上杉氏だけでなく古河公方の城も次々と落としていきました。
朝興も河越城から戦線を後退せざるを得なくなり、北条の関東制覇はもはや目前……。
という段階になって上杉朝興の外交努力が実を結びます。
上杉憲房や武田信虎の協力を得て反攻に転じ、河越城を取り戻すと、次々に勢力圏を回復していくのです。
氏綱も、上杉氏の本国である越後の協力を得て、関東上杉氏と対立させるなど、背後を脅かす外交努力もするのですが、それを上回る朝興の外交手腕によって北条氏は完全に孤立。
関東で「北条包囲網」が形成されてしまいます。
以後、朝興方との戦では常に劣勢を強いられるようになり、里見氏らの参戦もあって敵地攻略どころか鎌倉や玉縄城を攻められるという始末でした。
防戦一方の北条勢。
早雲以来続いた躍進も「ついにここまでか」と思われました。
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